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今時の卒業式(鷹岡小学校&鷹岡中学校)
 富士市内では、きょう3月17日、小中学校の卒業式が行われました。各校区ごと市議会議員が来賓として招かれ、自分、海野しょうぞうは鷹岡小学校と鷹岡中学校の卒業式に出席、ともに私語一つなく、きびきびとした所作、そして感謝の心を示した立派な卒業式の感想は、「小学生は生まれて12年にして、中学生は生まれて15年にして立派なものだ」。

 

で、ふと自分を振り返って「生まれて59年、義理を背負いながらも真を生きてきたか…」と反省しかりでした。

 

さてさて、今時の卒業式、自分が出席させていただいた卒業式は、小中ともに国家・校歌の斉唱はあたったものの、かつて卒業式の定番だった『蛍の光』と『仰げば尊し』の別れ歌は組み込まれていませんでした。
 関係者によれば「それは、かなり前から」とのことで、分かりやすい歌詞の歌が組み込まれていました。しかも児童・生徒が生き生きとした表情で唄う歌。「これでいいじゃん」が感想です。

 

今年は雨の卒業式。気温も低く、足先の感覚がなくるほどで、小中ともに卒業生一人一人に校長が卒業証書を付与したこともあって小学校は1時間半、中学校は2時間の所要時間で寒さとの闘いが大変でしたが、終わってみれば卒業生の希望や恩師と保護者への感謝の思いが余韻として会場に流れ、「いい卒業式だったな」でした。

 

そんな中、鷹岡中学校の卒業式で会場の保護者席から「おお〜」の驚きの声、さらに少しばかり笑い声があがる場面がありました。担任を先頭に卒業生が会場に入場した時です。

 

女性教師の袴を着用した和服の正装は珍しくないのですが、今年は男性教師二人が羽織・袴を着用した和服の正装で卒業式に臨み、そのうちの一人の羽織はピンク系、袴もギンギラ。「成人式での目立ち組より勝っている」、そんな感じでした。

 

富士市議会の申し合わせで、「主催者に失礼になる」を概括的な理由に、「来賓として招かれ、出席した式典などにおいて、ブログ用への掲載であっても写真撮影などは厳禁」となったことから会場にカメラを持ち込まなかったため、その場面を、ここに紹介することができませんが、何か熱いものがこみ上げてくる場面でした。

 

「教え子との別れの場、希望と不安が交差する中で進む、これからの人生に精一杯のエールを送りたい。この場では別れても、いつまでも、お前たちには俺がついている」、そんな思いを身形(みなり)に託したのではないのか。

 

退場時、すでに退場し、体育館の一角に卒業生といたピンク系・ギンギラ先生に万斛(ばんこく)の思いを込め、肩をポンと叩いて「先生、素晴らしかった」と声を掛けてきました。

見知らぬ若い先生、しばしキョトンとし、そして白い歯を浮かべた笑顔を返してくれました。

 

「単なる目立ちがり屋かも」なんて思いもあるのですが、「自分にできる卒業式での任務遂行」と、こちらもホンワカした気分でした。

| - | 20:43 | comments(1) | - |
コメント
イギリス映画の ‘チップス先生さようなら’・(Googbye, Mr. Chips) ・を見た。彼は立派な先生で学内から尊敬されていたが、学生から見た師の ‘恩’ といった主題にはならなかった。
‘仰げば尊し’ は1884年(明治17年)に発表されたアメリカの歌 (Song for the close of school) の替え歌で、「身を立て、名をあげ、やよ励めよ」、の歌詞は、一部に批判されているという。
日本語には敬語があり、人間平等の精神が根付かない。だから、上から下への利益供与はオンであるが、下から上への利益供与はオンにはならない。こうした相対的な判断の欠けた恩賜や恩給の言葉も戦後は消えてなくなったが、恩師はどうやら残っているようである。
学恩を受け、あるいはお世話になった師を、素朴に感謝で想いつつ、努力して、社会に貢献せよ、そして驕らずにさらに精進せよ、ということで、実に真っ当な歌詞であると思っている人も多数いるが、世俗の上下にとらわれた考え方である。
このような我が民族の序列観には問題があるが、今も昔も変わらない。’仰げば尊し’ は、旋律ではなく歌詞の内容を改善する必要がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

我が国は ‘下の者ほど割が悪い’ という身分格式の社会である。
つまり、身分 (地位) により格式 (待遇) の定まる社会である。
礼儀作法は、序列差法である。
このような序列秩序を保たないと社会はやっていけない事情がある。
身分の上下にこだわらなくてはいけない。’人間は生まれながらにして平等である’ という精神は受け入れられ難い。
だから、自己の地位の向上が渇望され、向上心が生まれる。

‘、、、、名誉ある地位を占めたいと思う’。( We desire to occupy an honored place …. ). こうした心意気は新憲法の前文にも表われている。
言葉づかい (階称) のある日本語では、こうした発想法 (mentality) を変えることは難しい。
我が国は、外国の優れた点だけを取るいわゆる ‘パクリ文化の国’ であるが、哲学だけはついに取れなかった。




| noga | 2012/04/07 6:04 PM |
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