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2012年、中国人殉難者慰霊祭に参加しました
 

 きょう7月1日早朝、富士市田子浦地区にある中丸平松墓地へ。午前9時から開かれる「中国人殉難者慰霊祭(以下、慰霊祭)」に参列。慰霊祭は、地元の中丸浜区と富士市日中友好協会が田子浦地区仏教会の協力を得て、毎年、この時期に開いているもので、自分、海野しょうぞうは日中友好協会の副会長としての参列でした。

 

 富士市内では、第二次世界大戦の末期、昭和19年ごろ、田子浦地区で飛行場の建設が進められ、日本の占領下にあった中国から500人余が強制連行され建設業務に従事。想像を絶する過酷な労働環境により52人が亡くなったといわれます。

 

 慰霊祭は、その史実を風化させずに後世に伝え、反戦・平和の輪を広げていくことを狙いに開催。中丸浜区の皆さんがテント設営や椅子などを準備、日中友好協会が受付や進行などを担当。慰霊祭には、鈴木尚市長や市議会を代表して川窪吉男副議長、さらに田子浦地区の区長や周辺の住民の方々も参列して下さいました。


 

   田子浦地区仏教会の僧侶による読経が流れる中での焼香


 

   慰霊祭で式辞を述べる日中友好協会の渡辺敏昭会長(右)

 

    市民を代表として追悼の思いを述べる鈴木市長

 

 この日、天気予報の降雨率は高かったのですが、1時間余の慰霊祭中、降ることもなく、終了時、何か清々しい気分でした。「慰霊祭に寄せる熱意がお天道様に通じたのだ」、そんな思いと、慰霊祭参加を通して、ささやかではあるものの反戦・平和運動を実践できたことの自己満足があったからです。

 

 帰り際、改めて慰霊碑に向かい、その碑文を脳裏に刻んできました。 


    中国人殉難者慰霊碑

 
 太平洋戦争の末期、中国から強制連行されてきた504人が旧富士郡田子浦村に陸軍が建設中の富士飛行場へ到着、「興亜建設隊」に編入され、作業に従事させられた。

 当時の劣悪な食料事情と荷重な労働の中で、52人が故国にはせる想いも空しく現地で亡くなられ、この中丸共同墓地へ埋葬された。

 遺骨は昭和29年(1954年)5月、市内福泉寺において地元関係者による盛大な慰霊祭が行われた後、同年11月に懐かしの祖国へと送還された。

 なお、この「中華民国人興亜建設隊故歿者之碑」は、飛行場工事請負人であった熊谷組が殉難者の霊を慰めるため昭和23年(1948年)7月に建立し、以後、関係者が手厚く供養してきたものである。

 このたび、悠久の日中友好を念願し、あらためて殉難者の冥福を祈りつつ建立の経緯を記したものである。

                平成2年(1990年)7月


     「戦争とは…」を今に伝える慰霊碑です

 

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