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富士市医師会の巨星(土屋重義氏)、墜つ
  12月5日、富士市のJAやすらぎ会館で医師、土屋重義先生の葬儀が行われました。行年92歳。体調を崩されていた、ここ数年、お目にかかることがなかったのですが、その訃報を受け、自分の若かりし頃の土屋先生との出会いとお世話になった事を思い出し、何か胸に迫るものがありました。それは寂寥感、改めて突き付けられた人の世の諸行無常。土屋先生の思い出が忘却の彼方へ行かぬよう、つれづれなるままに…。

 

 土屋先生は内科・小児科医。長年、吉原の土屋医院の院長として地域医療に貢献。昭和51年(1976年)に全国社会福祉大会の席上で生活保護医療の功労者として厚生大臣(当時)表彰に浴し、平成元年(1989年)には医師会会長として富士市の医療を支え、救急医療体制の確立、さらに喘息(ぜんそく)など大気汚染系公害被害者救済などの功労により市長表彰の栄誉に浴しています。

 

 自分が土屋先生と出会ったのは、30数年前、ローカル紙の駆け出し記者の頃でした。

 今でこそ子息二人が医師となり、後を継いでいるものの、当時は医療飢餓の富士市にあって押し寄せる患者に孤軍奮闘、そんな中で医師会会長の重責も担っていました。

 

 この時代、医師会は市や医大との連携による救急医療体制の構築を目指していたことから、その取材で…。さらに「大気汚染は大幅に改善された」を理由に指定地域解除、喘息などの大気汚染系公害被害者の新規認定作業中止の動きがあり、その面でも取材に…。超多忙という中でも取材に応じて下さいました。

 

 ただ、時間に厳しく、「30分程度」と申し込んだ取材で、指定された時間に遅れた際、取材には応じて下さったものの遅れた分だけ取材時間が短縮され、時間になると、さっと席を立って「患者さんが待っていますから」。当然といえば当然のことですが…。

 

 初の出会いから数年後、自分が30歳を超えた頃、土屋先生が脳裏に強烈に刻まれる出来事がありました。

 腹部の痛み。「食あたりかな?」と思ったものの、吐き気や下痢症状がなく、日を追うごとに痛さが増し、七転八倒の痛みになって土屋医院へ。

 

「先生、虫垂炎だったら薬で何とかして下さい」

 

 自他ともに認める小心者。手術は絶対にイヤ。というより「運命のままに人生を…」なんて気取って生きていた時代、すでに妻子がいる身であったにもかかわらず。

 

診断後、「虫垂炎ではない。内科医では対応できない。すぐに外科医に…」。この言葉に「手術はイヤだから、もう二、三日、様子をみます」と返すと、これまで笑顔で迎えてくれ、話す口調も温厚だった土屋先生は一転、語気鋭く、「海野さんは自分一人の身ではない。妻子がいるのではないか。手遅れになったら、どうするんだ。命を粗末にするもんじゃない」と、その場で市内の外科医に連絡し、「今から行くように…、緊急で診てくれるように頼んでおいたから」。

そこに存在したのは、医師会会長ではなく、医師不足の中で押し寄せる患者に真っ正面から対応し、地域医療を支えてきた医師としての土屋先生でした。

 

先生の気迫に押される形で指定された外科医へ。その夕刻、緊急開腹手術。病名はストレスと不規則な食生活を原因とした“大腸憩室炎”で、執刀医は「あと少し遅れたら大変なことになった」。

土屋先生のキツ〜イ叱責がなければ、自分は、今、この世に存在していなかったかもしれません。

 

訃報を知り、通夜に参列。祭壇に置かれた遺影が、自分が初めて出会った30数年前の医師会会長時代のものであったこともあって澎湃として思い出が蘇えり、懐かしく、そして辛いものでした。

人は人生の終末時、「どんな後姿を見せることができるだろうか」、そんな思いが心に浮かぶといわれます。

遺影に向けて、哀悼の思いを込め、こんな言葉を発してきました。

 

「医師人生を内科・小児科医として地域医療に投じ、かつまた医師会会長として地域医療の向上に貢献した土屋先生の後姿は燦然と輝いていますよ。合掌」

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