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薬害と闘い続けた島田直さん逝く
  その発生時には“奇病”とされ、その後、薬害であることが立証されたスモンに自らも苦しみながら先頭に立って被害者を救済、さらに難病患者の救済に人生を捧げた富士市今泉在住の島田直さんが亡くなり、きょう1230日、葬儀が行われました。

 行年79歳。葬儀の場で島田さんとの出会いから今日までが走馬灯のように思い出され、その壮絶な人生に、ただただ頭が下がり、遺影に向けて心から「スモンに苦しんだ分まで安らかにお眠り下さい」の言葉を手向けてきました。

 

 スモン(SMON)は、腹部膨満の後、激しい腹痛を伴う下痢がおこり、続いて足裏から次第に上に向かって、しびれ、痛み、麻痺が広がり、時に視力障害をおこし、失明にいたる疾患。膀胱・発汗障害などの自律障害症状・性機能障害など全身に影響が及ぶ。1955年頃から散発的に発症、19671968年の大量発症で社会の注目を集め、患者は重篤な症状と原因が不明であることによる恐怖から著しく差別され、ウイルス説が発表された時には自殺者が相次いだといわれます。

 

 こうした中、1970年8月に新潟大学の椿忠雄教授が疫学的調査を踏まえて整腸剤のキノホルム剤を服用したことによる薬害であることを指摘。厚生省(当時)は、これを受けてキノホルム剤の販売を直ちに停止。その結果スモンの発症は激減し、キノホルム原因説を確証する有力な証拠に…。その後、動物実験によってキノホルム剤がスモンの症状を引き起こすことが確認され、キノホルム原因説が確立しています。

 

「スモンの原因は薬害」、この確定を受けて全国の被害者は被害者団体を結成し、原因究明、責任の明確化と被害者の救済を求め各地裁で提訴。やがて被害者団体は全国組織を結成し、救済のみならず薬害の根絶を求める裁判闘争を展開。19799月には、東京地裁の斡旋によって国及び製薬企業がその責任を認め、被害者救済の道筋を定めた確認書に調印、当時の厚生大臣が謝罪するとともに、薬害根絶の努力を約束しています。

 

 島田さんがキノホルム剤を服用し、スモンの諸症状が出たのは1968年。持病の喘息(ぜんそく)の悪化で市内の病院に入院した際、医師に「お腹の調子も悪い」と告げたところ整腸剤としてキノホルム剤を渡され、それを服用、スモンを発症したといいます。

 

 自分が島田さんと初めて出会ったのは、前職のローカル紙の記者時代、まだ駆け出し記者の1975年頃。島田さんが静岡県の被害者の先頭に立ち、街頭で救済のみならず薬害の根絶も求める運動への署名活動に乗り出していたことの取材でした。

 この時期、すでに島田さんは失明していました。取材で初めて会った場で、「スモンは、全身に影響が及ぶが、特に不定愁訴(ふていしゅうそ)が辛い」、そんなことを話されていました。

 スモン発症によって公務員の職を失い、薬害と立証されたものの根治療法はなく、加えて妻子と両親を抱えた一家の大黒柱の身。島田さんが歩んでこられた壮絶な人生は、ダラダラと日々を過ごし、つまらぬことに悩んでいた20代の自分にとっては衝撃的なものでした。

 

 薬害の被害者救済の道筋が定まった後も島田さんは富士市難病団体連絡協議会を立ち上げ、難病患者の救済に全力を傾注。根治療法が確立されていないものの、少しでもよりよい方向に向かうための医療体制の推進や、医療相談・生活相談体制の整備、そして原因究明の促進を願っての活動でした。

 

 島田さんの生活は幼児教育に携わっていた夫人に支えら、活動はボランティアに支えられたもので、その支えへの感謝の思いは満面に浮かべた笑みに示し、取材の際も何時も笑顔で迎えてくれました。多分、肉体的に辛い時もあったはずなのに…。

 

 スモンは、全身に影響が及ぶとされているだけに、それ裏付ける形で最後は「呼吸困難に陥って亡くなった」といいます。

 スモンと闘い続けた壮絶な人生。富士市の街頭でマイクを握り、スモンの被害者救済への理解を求めた姿。難病患者救済のために奔走した姿。それを見てきた者として胸に誓っています。

「人の道、人生の価値とは…、それを教えてくれた島田さんを決して忘れまい。合掌」

 

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