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富士山の世界文化遺産登録と文部省唱歌『ふじの山』



 日本のシンボル、富士山の世界文化遺産登録を審査する国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「第37回世界遺産委員会」が今月16日にカンボジアの首都、プノンペンで開幕。ユネスコ諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)の勧告通り登録が決まるのは、ほぼ確実。登録が決まると国内の世界遺産は、2011年登録の平泉(文化遺産、岩手県)と小笠原諸島(自然遺産、東京都)以来、17件目となります。

 

 今月27日までの会議会期中、富士山を含む新規登録の審査は21日から23日に行われる予定で、富士山周辺の富士市を含む市町では登録決定のセレモニーや記念イベントを企画。その中、セレモニーやイベントで文部省(現・文部科学省)唱歌『ふじの山』の合唱や演奏の情報が相次ぎ、「富士山の世界文化遺産登録のテーマ曲になりそう」、そんな感じです。

 

 この『ふじの山』に示される富士山の麗姿、富士市からの眺望という説があり、その根拠を徒然(つれづれ)なるままに…。

 

 現在では、『富士山』と呼ばれることが多い「あたまを雲の上に出し…」で始まる『ふじの山』。作詞者は明治から大正にかけて活躍、日本近代児童文学の開拓者とされている巌谷小波(いわやさだなみ、1870年・明治3年7月4日−1933年・昭和8年9月5日)で、発表したのは1911年・明治44年。作曲者は不詳。全120曲を数える文部省唱歌の中で最も知られた曲で、2007年・平成19年には『日本の歌百選』にも選ばれています。

 

 自分も、いつ頃、覚えたかは記憶にないものの富士山の麓に住む者として幼少期から口ずさむ愛着のある曲でしたが、ことさら意識するようになったのは20年ほど前でした。

 

 当時、ローカル紙の記者で、郷土史で分からないこと、知りたいことがあると市庁舎6階にあった市史編さん室へ。そこには、嘱託職員として富士市を代表する郷土史家だった鈴木富男先生(2001年・平成13年没)がおり、いつも笑顔で出迎えてくれ、「はいよ」といって難題、時には珍問の質問にも答えて下さいました。

 

 そんなお付き合いの中、かなり高齢だった富男先生は、「若い頃、訪ね歩いた市内の名所旧跡を死ぬ前に、もう一度、確認したい。もう自分では車の運転ができないので暇な時に連れて行ってくれないかな」とポツリ。以後、自分が日頃受けている恩への返礼の思いを込め、仕事の合間をみてはマイカーで富男先生の指示する市内の名所旧跡へ。

 

 戦前に吉永の山中に活動の拠点を構えていたものの、忽然と消えた新興宗教であり民間精神療法施設であった「不二大和同園」、最も落差のある赤渕川の「黒坂の滝」。ある時には、愛鷹山を「古代人がコンクリートで造ったピラミッド」と主張し、ピラミッドパワーを売り物して愛鷹山中に住み着いた宗教家を訪ねたことも。

 

 そんな中で訪れた場所の一つに、吉永第二小学校区内にある赤渕川左岸に建立された巌谷小波の句碑がありました。句碑には『大瀧や猿が塒(ねぐら)の 玉簾(たますだれ)』と記されていました。


 赤渕川左岸に建立されている巌谷小波の句碑 


 巌谷小波は、『ふじの山』や『一寸法師』などを作詞したほか、全国各地に残る民話や英雄譚を題材にした児童文学作品を世に送り出し、その作品には『桃太郎』や『花咲爺』などが広く知られています。

 執筆活動のほか、口演活動、いわゆる語り部活動にも取り組み、作品の題材探しを兼ねて全国を行脚したといわれます。

 

 富男先生は、句碑に目をやりながら「なあ、海野さん、巌谷小波の全国行脚の交通手段は時代的に鉄道が中心で、東海道線利用により富士市から富士山を望んだことが想定される。わしゃ、『ふじの山』は富士市から望んだ富士山と思っているのだけど…」。

 さらに富男先生の話は続き、「丹那トンネルが開通(1934年・昭和9年)する以前に巌谷小波は『ふじの山』を作詞。当時、東海道線は御殿場経由で、御殿場からも富士山を望むことができたが、富士山との距離が短く、さらに、その地形からしても『ふじの山』の1番である「あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして かみなりさまを下に聞く…」に合致する富士山眺望の地は富士市だと思っている。それに巌谷小波は富士市を訪問したこともある。それを今に伝えるのが、この句碑だ」と。

 巌谷小波は、1921年・大正10年9月11日に富士市内にあった鵜無ケ淵尋常高等小学校(現・吉永第二小学校)を訪れ、『お伽話口演会』に出演しています。地元住民が用意した馬に乗って口演会会場の鵜無ケ淵尋常高等小学校を目指し、その途中の赤渕川にある猿棚の滝付近で詠んだ句が『大瀧や 猿が塒(ねぐら)の玉簾(たますだれ)』で、句碑は地元の人々が巡講記念として建立したものです。

 

しかし、巌谷小波の富士市来訪は、『ふじの山』の作詞から10年後。この時代差について富男先生は、「文部省唱歌の『ふじの山』が広く知られる中、地元住民が招聘したもの。巌谷小波が地方都市、それも不便な山間部の小学校を会場にした口演会への出演を承諾、訪れたのは富士市からの富士山眺望で『ふじの山』を作詞、富士市に愛着を抱いていたからではないか」と推測。

 その上で、「地元住民の句碑建立には、巌谷小波が住民とのふれあいの中で富士市からの富士山眺望をもとに『ふじの山』を作詞したことを語り、その作詞に感謝する思いも込められていたのではないか」とも推測し、最後に、こんな思いを託されました。

 

「あれこれ文献を調べたけれども、『ふじの山』作詞あたっての富士市からの富士山眺望説を立証する記述は、残念ながら見つけることはできていない。海野さん、あとは頼むよ」

 

 その時、どんな返答をしたかは記憶に残っていませんが、郷土史の第一人者だった富男先生が郷土史初心者どころか郷土史ヨチヨチ歩きの自分に託したのは、立証する記述の発見ではなく、「巌谷小波は富士市からの富士山眺望をもとに『ふじの山』を作詞」、それを推量副詞の「多分」を冠に付けて後世に伝え、富士市からの富士山眺望を誇りとすることを市民の間に広げてほしい、ではなかったと得手勝手に解釈しています。

 

 富士山の世界文化遺産登録のテーマ曲になりそうな『ふじの山』。この機会をとらえ、富男先生との約束を果たすべく、富士市からの眺望説を機会あるごとに語っていこうと思っています。冠に「多分」を付けて…。

 

 
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