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視察研修報告(平泉〜東日本大震災被災地)パート

第2章 東日本大震災の岩手県三陸海岸の復興現況の把握

 

【目的】

 

 2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災は、日本人が過去経験したことがないマグニチュード(M)90という規模の巨大地震、そして津波、原発事故による未曾有の被害は、自然災害と原発問題への根本的な見直しを突き付けた。

 

 我々、富士市議会の会派「耀(かがやき)」は、「東海地震の不安が高まる中、海岸線に面する富士市の市議会議員として、ぜひとも現地を視察、被災状況を把握して富士市の防災強化に結び付けたい」、その思いを実現するため震災から4カ月後の2011年(平成23年)7月13日、14日の二日間、岩手県内の被災地を訪れた。

 

 通常、市議会の視察研修は、委員会単位と会派単位で取り組み、議会事務局を通して視察先の自治体に受け入れを要請するが、復旧・復興作業に多忙を極める被災地自治体にとって、そんな通常手順での視察研修の申し入れは迷惑千万。さらに、「押し掛け視察や見学者が相次いで交通渋滞を招き、復旧・復興作業の支障になっている」などの報道も伝わる中、議員は、それぞれの立場で義援金活動や支援物資活動、災害ボランティア活動などに取り組んでいた。

 

 こうした中、第三セクター方式の鉄道会社で、三陸海岸沿い約108舛力線運行を担う三陸鉄道が自ら大きな被害を受けながらも「地元を熟知している私達が視察を企画し、ガイドとなることで被災地の復旧・復興のための作業の円滑な実施を支援し、何よりも正確な現地情報を届けることができるのではないか」と『被災地フロントライン研修』を打ち出した。

 

「現地に行きたい。行かなければならない。しかし、現地のことを思えば今は無理だ」という中で、その三陸鉄道が打ち出した『被災地フロントライン研修』の情報をキャッチ、費用的には、かなりの負担だったが「被災した三陸鉄道の復旧・復興に協力することにもなるのでは…」で一致、参加を申し込み、震災から4カ月後、被災地を訪れることができたものである。

 

 それから2年余、静岡県が東日本大震災の教訓を踏まえた巨大地震の第4次被害想定を発表、各市町に防災・減災対策の強化を突き付けている。

「あの岩手県内の被災地の復旧・復興作業は、どの程度まで進んでいるのか…、課題は、何か…」、その把握は、富士市の防災・減災対策の強化を目指す上で必要ではないか、多くの示唆が得られるのではないか、そう判断して再び被災地を訪れた。

 

 被災地訪問計画を準備する中では、大槌町から現地調査受け入れの承諾が得られたことから、今回の視察研修報告は、「第2章東日本大震災の岩手県三陸海岸の復興状況の把握」「第3章 岩手県大槌町の復興施策と課題について」に分け、まとめた。

 

 

【視察研修内容】

 

 被災地に入ったのは、平泉町の観光振興の取り組みの視察研修が終了した翌日、2013年(平成23年)7月13日と14日の二日間、視察研修ルートは、2年1カ月前と、ほぼ同じ、大船渡市→釜石市→大槌町→山田町→宮古市である。交通手段はレンタカーを利用した。

 


 以下は、震災直後の前回と2年1カ月後の今回の比較を中心に市町別でとらえた「第2章東日本大震災の岩手県三陸海岸の復興状況の把握」の報告である。

 なお、市町別の人口と世帯数は2010年(平成22年)10月1日時点、人的被害、建物被害は岩手県災害対策本部まとめの2013年(平成23年)6月26日時点でとらえたものである。

 

 

大船渡市

 

※人口    4万0,801人

※世帯数   1万4,772世帯

※死者        325人

※行方不明者     127人

※家屋倒壊棟   3,629棟

 

 東日本大震災の震源地は、牡鹿半島の東南東約130繊⊃爾24舛箸気譟⇔γ呂ら離れていたことから日本人が過去経験したことがない規模の巨大地震であったものの最大震度の7を記録したのは宮城県内陸部の栗原市だけ。震源地が陸地から離れていたことから広範囲にわたる大きな揺れが避けられ、その結果として揺れによる建物被害が軽微だったことが特徴だった。


 建物被害の軽微は、過去の巨大地震との対比で「建築基準法改正で耐震性の高い建築物の比率がアップ」なども理由とされ、さらに「建物被害は地盤との関係も深い」とされている。


 しかし、揺れの被害が軽微であった一方、その震源地の位置は大津波発生原因となり、このほか頻発する余震や地殻変動による地盤沈下なども踏まえ、揺れだけでなく巨大地震の多面的な脅威に目を向ける必要性への認識が東日本大震災の大きな教訓といえる。


 

 20117月。JR線の大船渡駅は、すべて流され、線路も土砂で埋まっていた。この視察時、「防潮堤など津波対策が行われなければ路線の普及は難しい」、そう思われた


20138月。大船渡駅に訪れ、目を疑った。復旧工事が終了していたのである。それも鉄道ではなくバス輸送のBRT((Bus Rapid Transitバス・ラピッド・トランジット)採用による復旧である。もちろん線路は撤去され、道路化が図られていた

 

 

 移動する車からとらえたBRTのバス車両。かつての鉄道路線を走り、踏切など鉄道機能があることから定時制にも優れ、「このままの方式でいくのでは…」、そんな思いを抱いた。


 

 20117月。津波に流された大船渡市の市街地。誰かが日の丸を掲げていた



 20138月。再び、この地を訪れたものの、建物の旧・復興は、ほとんど手付かずだった

 

 

釜石市

 

※人口    3万9,294人

※世帯数   1万7,606世帯

※死者        867人

※行方不明者     367人

※家屋倒壊棟   3,723棟

 

 この釜石市も海岸線一帯は廃墟。その情景は大船渡市と同じであったものの、少しばかり違う面もあった。火災痕である。

 宮城県気仙沼市の港は、石油コンビナートのタンクが津波で押し流され引火、港湾一面が火の海になったことがテレビで放映されているが、釜石市は、ガソリンスタンドが津波の被害を受け、漏れ出したガソリンに引火、火災が相次いだ。


 2011年7月。津波被害を受けたビル


 

 20138月。釜石市は、海岸線の高架道路が整備されたためか、かなり市街地の復旧・復興工事が進んでいた

 

 

大槌町

 

※人口    1万5,293人

※世帯数     6,352世帯

※死者        783人

※行方不明者     827人

※家屋倒壊棟   3,677棟

 

 この大槌町は、町長をはじめ町の幹部も犠牲になっている。

 震災時、町長を始めとする町職員幹部ら約60人は災害対策本部を立ち上げるべく町庁舎2階の総務課に参集したが、止まない余震にいったん駐車場へ移動し、さらに津波接近の報を受けて屋上に避難しようとしたものの約20人が屋上に上がったところで津波が到達。町長と数十人の職員は間に合わず、庁舎の1、2階を襲った津波に呑み込まれ、そのまま消息が途絶え、町長以外にも課長クラスの職員が全員行方不明となったため行政機能が麻痺。県都である盛岡市から車で数時間かかる地形もわざわいして被害の全容が外部に伝わりにくく、周囲から孤立したような状況がしばらく続いた、という。


 

20117月。大震災時の大槌町役場。1、2階は壊滅状態で、屋上に避難した職員も、助かったのはポールにしがみついた数人だった、という

 


 

 2011年7月。正面玄関上にあった時計は津波襲来の午後3時29分で時を止めていた



 2013年8月。役場は移転。津波被害にあった旧役場は、移転か、一部保存かで賛否が分かれ、被災時の状態のままとなっていた



山田町

 

※人口    1万8,745人

※世帯数     7,211世帯

※死者        581人

※行方不明者     241人

※家屋倒壊棟   3,184棟

 

 この山田町では、海沿いの船越地区を視察した。


 
2011年7月。海岸線にある2階建ての老人保健施設。なんと2階屋上には津波で流されてきた高級外車のポルシェがそのままの状態だった。となると津波高は屋上まで…。ガイドは、「この施設は老人保健施設。入所していた多くの高齢者が亡くなっています」と話した



 2013年8月。施設の撤去作業が進められていた

 

 

宮古市

 

※人口    5万9,118人

※世帯数     2,4351世帯

※死者        420人

※行方不明者     161人

※家屋倒壊棟   4,675棟

 

2011年(平成23年)7月時の視察研修の初日は宮古市の市街地にあるビジネスホテルに宿泊。夕刻、宮古市内に入り、マイクロバスで宿舎に向かう途中、これといった被害を確認することができなかった。

宿舎に到着しても、JR宮古駅から徒歩8分のところにある9階建てのビルに被害の痕跡はなく、フロントに掲げられていた「1階部分が津波被害に遭い、厨房が使えませんので、夕食、朝食ともに提供できません」の張り紙で「ここも確かに津波被害に遭ったのだ」を確認するのみだった。


 この宮古市の市街地は、海に面しているものの、地形によるためか、それとも万全な津波対策によるためか被害が軽微。

 

しかし、現在は宮古市となっているものの田老地区は想像を絶する津波被害が発生している。

 田老地区は、津波の被害を受けやすい典型的なリアス式海岸で、“漁協のまち”として発展してきたものの、田老村時代の1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震による大津波で1,859人、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震による大津波でも911人もの犠牲者が出ている。

この二回にわたる甚大な津波被害から昭和三陸地震以降、防潮堤築造に乗り出し、半世紀をかけて高さ10叩長さ24舛傍擇嵋苗堤を完成させ、1960年(昭和35年)5月24日に押し寄せたチリ地震による大津波でもまちを守ったことから『日本の万里の長城』と呼ばれ、世界各国の地震・防災学者が視察に訪れるほどだったという。

 

 今回の大津波は、その高さ10辰遼苗堤を乗り越え、また、一部を破壊、死者200人余を数える惨事をもたらしている。

 東日本大震災が「1000年から数千年に一度の巨大地震」とされる所以である。


 

 2011年7月。巨大地震は『日本の万里の長城』と呼ばれた防潮堤も破壊した

 


 

 2013年8月。防潮堤のかさ上げと強化工事が進められていた


 

 2011年7月。防潮堤にあった田老漁協施設は壊滅的な被害を受けた
 

 

 2013年8月。復旧・復興工事が進む田老漁協


 

 漁協の護岸工事などは終了しているようだった

 

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