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星座の先生、鈴木巌氏逝く

 きょう11月4日早朝、電話で「主人が急逝しました」。亡くなられたのは元・中学校長で、自分、海野しょうぞうが市議職を仰せつかる前に勤務していた富士ニュース社の嘱託カメラマンだった鈴木巌先生でした。

 86歳。年に不足があるわけでなく、5、6年前からは体調を崩され入退院を繰り返していたものの、ローカル紙の駆け出し記者時代から40年近い付き合い、校長退職後には机を並べてのお付き合いをさせていただいただけに訃報の知らせに茫然自失。思考回路がメチャメチャ状態ですが、きょうのブログは、しばし、先生との思い出を記します。



     
鈴木巌氏遺影

 

 先生は1926年、富士宮市日の出町生まれ。1947年に静岡青年師範学校水産科卒業。教職の第一歩は同年の元吉原村立元吉原中学校でした。

 校長就任は1974年、須津中。その後、富士南小、東部教育事務所と回り、吉原北中で定年を迎えました。

 

 退職後、富士地区学校生活協同組合長を担い、1992年に富士ニュース社編集部の嘱託カメラマンとなり、10年余にわたって優れた感性をもってショットした学校行事をはじめ市内のイベントや四季の移り変わりなどを読者に届けました。

 

 天文学に造詣が深い星座の研究家としても知られ、青少年向けの星座教室の講師を長年にわたって担い、定年退職年の1988年に世界の星座を追い求めた手記『サザンクロスの旅』を自費出版。1991年に一連の教育振興の功績により富士市教育文化奨励賞(現・教育文化スポーツ奨励賞)受賞の栄誉に浴しています。


 

自著『サザンクロスの旅』(表紙部分)

 

 自分が初めて先生と出会ったのは、駆け出し記者の頃、先生が須津中校長時代です。

当時、須津中では、学校あげて鑑賞菊を栽培、さらに育て上げた菊を題材にしての作句にも取り組み、編集部に先生自ら電話で「生徒が頑張っているので、一度、富士ニュースの紙面に載せてほしい」。

 取材で訪れると、当時は木造校舎。老朽化した校舎の玄関や廊下は色鮮やかな菊花にあふれ、一鉢ごとに生徒の俳句が吊るされていました。

 取材、掲載した記事は、もちろん、モノクロでしたが写真入り。「素晴らしい学校だ」、その取材感想を記事の末尾に一句にまとめて掲載したところ、後日、丁寧なお礼文が届きました。

 

 その後も何回となく取材を依頼され、その中で先生の“人なり”を知り、さらに周囲の話から先生は「児童・生徒が好き、人が好き、そして校長という権力を有する立場になってからも権力の笠を着るのが嫌い」、そんな人であることも知ることができました。

 その人物像を具現する話として同僚からは「がんさん」と親しみを込めた愛称で呼ばれ、児童・生徒には先生にあこがれて教職を目指した者がいる。定年を迎えた吉原北中では先生方が一致協力して“校長卒業式”を開いたことは富士市の教育界の語り草となっています。

 

 先生が1992年に富士ニュース社編集部の嘱託カメラマンとなったのは、イベントの取材先で偶然、お目にかかり「今、どちらに…?」と自分が声をかけたことがきっかけでした。

「学生協を辞め、今は、趣味の写真に凝って、あちらこちら撮影に出掛けています」との言葉が返ってきました。

 当時、富士ニュース社は社全体が世代交代期。しかし、社員を増やせる経営状況ではなく、そうした中での先生との久々の出会い。経営者に「読者参加型の紙面を目指すためにも嘱託記者として採用しては…」と進言すると「アタックを」。で、先生にアタック。二つ返事で「私でお役に立てるなら」。鈴木巌カメラマンの誕生でした。

 嘱託としての依頼であることから「週一回の編集会議に出席を、そのほかは応援カメラマンで…」としていたものの、精力的に取り組んで下さり、その中では、かつての教師仲間で、富士市の植物学の第一人者である中山芳明氏に執筆を要請、中山氏が文章、先生が写真撮影を担当した連載物『みどりのプロムナード』がスタートしました。
 この『みどりのプロムナード』は連載終了後の2001年、一冊の本にまとめらえて江湖に送り出されています。

 

 週一回の編集会議が終わった際のちょっとした雑談の時間、先生は静岡青年師範学校水産科時代の事を懐かしむように話され、「実習でマグロ船に乗り、外洋に出掛けた。その時の大海原で観た星空が今でも鮮明に蘇える」。この言葉は、「つまらぬことでクヨクヨ悩む人間社会から脱皮、夢を描き、大きな未来という世界に向けて前に進もう」、そんな言葉にも置き換えられるのでは…、だから青少年向けの星座教室に意欲的に取り組んだのではないか…、そう受け止めています。

 

 富士ニュース社での嘱託カメラマンとしての在籍は10年余。「IT社会を迎え、私の時代は終わったので…」、そう申し出ての退社。すでに70半ば、慰留することが許されない年齢でした。

 

 先生が在籍して下さった、その10年余、会社の世代交代で編集部の責任者に推し出された若輩者の自分が、人に命令されることも、命令することも嫌いな性格であるものの、どうにか職務を遂行できたのは有形無形の先生の支えがあったからだと胸に刻んでいます。

 先生は死んではいない。所替えて富士市の天空のサザンクロスとなって輝いてくれる。そう、信じることで澎湃として押し寄せる名状し難い世の無常と向き合っています。

 

 先生の葬儀は、5日午後6時から通夜、6日午前11時から本葬、ともに富士市青葉町540のセレモニーホール富士。喪主は妻の恭子さん、施主は長男の輝芳(きよし)氏。

 

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