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この人を光に…
 三寒四温を繰り返しながらも季節は確実に万物躍動の春へ。「春うらら」、のどかな日々になると思いきや、個人的には、ここにきて訃報が相次いで届き、ちょっとばかりへこんでいます。

 

 3月に入った、きょう1日にも親友のお母さんの通夜があり、先ほど、自宅に戻ってきたところです。

 

 親友のお母さんは自他ともに認める肝っ玉母さん。祭りに呼ばれた際などに歓談。豪放磊落、つまらぬことは甲高い声で笑い飛ばし、自分が若い時に母親を失ったことを知っているため、「あんたのお母さんの代打」ってな調子で、あれこれ人生の指南も授けて下さった方でした。

 

 享年94歳。ここ1年は寝たきりで、親友夫妻が本人の希望を受け止めて自宅で介護。年齢(とし)に不足があるわけでなく、家族に看取られての安らかな最期。それでいて迫りくる寂寥感、まだまだ長生きしてほしかった、その思いが募っています。

 

 肝っ玉母さんは、目がご不自由でしたが、晩年、視力を回復しています。

 

 よく、こんな話をされました。

 

「海野さん、若い頃、医者に『目の癌のような病気。視力を回復するのは無理』といわれた。辛く、生きるのに大変だったけど頑張ってきた」

 

 光を失ったものの、妻、母親、子育て、家事、そしてマッサージ業で家計を支え続けた生活。その労苦は、「人生、何んとかなるさ」と適当に生きてきた自分にとって想像できるものではなく、ただ、「大変でしたネ」の言葉を返すだけでした。

 

 晩年、医療の発達もあって手術により視力が回復。それを聞いた時は驚き、そしてうれしさがこみ上げてきたことを覚えています。

 

 ただ、一人で散歩もできるようになったものの、健常者の「見える」とは違う「見える」のレベルでした。

「手術で視力が回復」、それを知った、その年の祭りに呼ばれた際、肝っ玉母さんに「お母さん、俺、想像していた通り、男前だら?」と聞くと、自分の顔を見詰めて、しばらくして、「思っていた通りの、いい男だ」。

 これは視力が回復したものの、その視力は「ぼんやりと見える程度」、その証左でした。

 

 しかし、視力のレベルがどうであれ、「見えること」、それは肝っ玉母さんが頑張って生きたことで手にした人生の勲章でした。

 

 福祉の本質を伝える、ある牧師の言葉があります。

 

「この子らに福祉の光を…ではなく、この子らを光に…」

 

 厳しい境遇の子供に福祉の光を与えるだけでなく、福祉の本質は、厳しい境遇の中でも逞しく生きる子供を社会は光としてとらえ、そこから多くのことを学ばなければならない」、そんなメッセージを込めた言葉と理解しています。

 

 親友のお母さん、肝っ玉母さんは、自分にとって、「この人を光に…」のような存在だっただけに「迫りくる寂寥感」となり、加えて、せっかく見えるようになった人生なのだから「もっと長生きをしてほしかった」との思いが募るのですが、多分、肝っ玉母さんは、こんなことを言い放つと思っています。

 

「海野さん、いい年齢こいて甘えたこと言うんじゃないよ。わたしゃ、十分、長生きした。今度は、あんたが社会の光にならなきゃ!」

 

 分かってはいるんですがネ〜、肝っ玉母さん。でも、あの、その…です。

「頑張ります」とだけ誓って、あすの本葬、見送ってきます。

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