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『ふじ市民文芸』の半世紀、その歩みを振り返る

富士市教育委員会は、市民から文芸作品を募集、優秀作品を収録した『市民文芸』の第50号を発行しました。A5判、278ページ。一冊500円。文化振興課(市庁舎7階)や市内の一部書店で販売中。

 

この『市民文芸』、文芸活動の普及と活性化を目的に、文芸愛好家で組織する編集委員会の協力を得て、表彰式に合わせ、毎年、発行しているもの。創刊号である第1号の発行は二市一町合併2年前の昭和39年度(1964年度)、東京オリンピックが開かれた年で、発行は吉原市教育委員会でした。

 

そして迎えた記念すべき第50号。

 

ローカル紙記者の前職時代、活字を扱う職業とあって編集委員会の委員委嘱を受け、今も委員。とはいえ市議に就任した以降、市議活動優先のため編集委員会の会合の欠席が多く、今じゃ、どうでもいい委員。

 この一方、他の委員、そして担当課の文化振興課も「半世紀を迎えた第50号は記念号として発行を」とヤル気満々。「富士市の文芸誌であることを対外的に示すために第50号を節目に『市民文芸』の呼称を『ふじ市民文芸』に改称しよう」、「表紙は富士山の世界文化遺産登録を記念して富士山写真コンテストの入賞作品で…」、さらに「挿絵は中止して50年の歴史を伝える写真で…」と次々とアイデアが提示され、それらをすべて採用。

 

   
     改称した『ふじ市民文芸』です(表紙部分)

 

 そんな中、『この第50号までの歩みを後世に伝える一文を』のアイデアも。問題は「誰が執筆するか」。

 いやな予感。委員の視線は自分に…。今じゃ、どうでもいい委員であるものの一番の古株。「最後のご奉公」、そんな気持ちから執筆を引き受け、「『市民文芸』の半世紀、その歩みを振り返る」と題した一文も第50号に掲載されています。

 

 400字詰め原稿用紙で20枚ほど。議員という立場、執筆者名の記載は「売名行為だ」と受け止められる不安があり、加えて文中に自分のことも記さなければならないため、執筆者名は「編集委員会」とさせていただきました。掲載にあたっては編集委員全員に目を通してもらい、意見も賜わっており、「これでいいじゃん」と思っています。

 

以下は、『ふじ市民文芸』が今後も発行され続けること、そして一人でも多くの方が応募して下さることを願って執筆した、その全文です。少し長文ですが、読んでいただけたら幸甚の至りです。

 

 

 

『市民文芸』の半世紀、

       
その歩みを振り返る

 

 この地球上には、満天に輝く星のごとく数知れずの生命体が存在するものの、“書く”という作業は人にだけ与えられたもの。それは心を育て、心を磨く貴い作業でもあり、文芸という言葉に集約される。

「文芸は人づくり」の認識をもって富士市教育委員会(以下、市教委)は、毎年、文芸の普及・振興を目的に市民を対象に作品を募集、寄せられた作品のうち優秀作品を収録した『市民文芸』と命名した作品集を発行、本年度、第50号を迎えた。

 この半世紀という節目を迎えた本年度、第50号発行記念として発行サポート機関である、我々、『市民文芸』の編集委員会は、「先人の労苦を活字として残したい」と、その歩みを振り返った一文を執筆、第50号に組み込ませていただいた。

 ただ、創刊号である第1号の発行は半世紀も前、この創刊当時及び黎明期を知る関係者は、すでに鬼籍に入られた方が多く、一部は文献から振り返ることを余儀なくされた。加えて第50号は通常の優秀作品集であり、半世紀の歩みの記録掲載は、そのスペースにも制限が求められた。よって先人の労苦にスポットを当てた半世紀の歩みの総体的な流れを追い、『市民文芸』を支えて下さった応募者と、その作品紹介など詳細部分にふれることは断念した。

「半世紀も続いている『市民文芸』の発行は富士市が誇る市民文化である」、その認識と意識が広がり、さらに、「第51号、第52号…に向けての一里塚になってほしい」、それを願って、この一文を江湖に届けたい。

 

【創刊、黎明期】

 創刊号である『市民文芸』第1号の発行は二市一町合併二年前の昭和39年度(1964年度)、東京オリンピックが開かれた年である。発行は吉原市教育委員会、担当課は社会教育課であった。

 現在と同じA5版サイズで、ページ数は八十ページ。表紙は東京芸術大学に学び、長く県立吉原高校で美術教師を担った富士市在住の日本画家、村井嘉作氏の作品で飾ったものの、その作品はカラーではなくダークブルーの一色刷り。使用している紙も現在のような品質ではなく、新聞用紙程度のものであった。

 募集種目は、現在と、ほぼ同じ小説、随筆、評論、詩、短歌、俳句、川柳の七種目、トップ賞は現在と同じ市民文芸賞で、この市民文芸賞受賞作品をはじめとする入賞・入選作品が収録されている。

 第1号には全体及び種目別の応募点数は掲載されていない。選後評に書き込まれた応募状況から判明できるのは小説三点、随筆十一点、評論二点である。

 審査員の氏名は掲載されているが、その肩書きの掲載はない。多分、小説や随筆、評論、詩などは静岡大学の教授陣の協力、そのほかの短歌、俳句、川柳などの短詩型は、その時代、すでに県レベルで協会が組織されており、県内在住の歌人、俳人、川柳作家に委嘱したものと推測される。

 種目別作品のうち俳句については、戦後に現代俳句の著しい傾向として台頭した社会詠、現場詠の流れがみられ、審査員(南信一氏)は選評で「吉原俳句界の頼もしさを思わせる」と、その作品群を賞賛している。これは戦後、富士市が工業都市への道を歩む中、特定分野であったにせよ文芸という文化活動も盛んであったことの証左といえよう。

 この第1号では、「発刊のことば」を時の教育長、渡辺巌氏が執筆。「収録作品が文芸を志す方々の指針となり、さらに多くの人々の斯道愛好の念を高めることが出来得ますなれば、誠に幸甚に思うものであります」(抜粋)と記している。

 配布は、「収録作品の入選以上の応募者には無料で贈呈。入選外についても印刷部数の範囲内で贈呈」であった。

 その後、しばらくの間、同様のスタイルの発行が続くものの、一点、現在と大きく違うのは審査員の委嘱期間である。現在、県内在住の文芸家に二年から三年サイクルで審査員を委嘱、審査の視点が変わっているものの、創刊号から黎明期においては審査員が固定化、詩と川柳の二種目においては第1号から第10号まで同じ審査員であった。この審査員の固定化からは、事務局の審査員確保の苦慮が窺い知れる。

 装丁面は、第1号の表紙が一色刷りだったものが第2号からカラー刷りとなり、その表紙デザインは富士市を代表する画家や陶芸家、染織家などの協力を得て作品をリレー方式で採用。平成17年度(2005年度)の第42号以降は、“市展”と呼ばれる市教委主催の公募展の絵画部門の入賞作品から編集委員会が本の装丁にふさわしいものを互選で選び採用している。

 

【文芸活動の隆盛期】

『市民文芸』は号を重ねるごとに多少の波があったものの確実に応募点数が増加。昭和51年度(1976年度)発行の第13号の応募点数は三百三十一点を数え、その内訳は小説十四点、随筆二十五点、詩六十一点、短歌百一点、俳句八十七点、川柳四十一点、紀行一点、レポート一点であった。

 

【活字離れが進む中、

  応募作品減少、テコ入れ図る】

 しかし、活字離れが進む中、種目によっては応募作品が減少する傾向となり、それは小説など創作に時間を要する長文に顕著となって示され、昭和51年度(1976年度)発行の第13号で文芸史上最多の十四点を数えていた小説は、わずか二年後の昭和52年度(1978年度)の第15号では四点。随筆や詩も減少傾向を示した。

 この状況を受けて市教委は、テコ入れ策として、県レベルの創作協会や県内在住の文芸家の協力を得て「文芸入門教室」や「詩入門教室」などに取り組むことになる。その成果は、徐々ではあるが応募作品の増加に結び付いていった。

 さらに、昭和57年度(1982年度)の第19号から実力者を審査対象外とする招待作家制度を導入、昭和58年度(1983年度)の第20号から時代ニーズとなっていた受益者負担に基づき、『市民文芸』の無償配布を中止、有償配布(一冊五百円)への切り替えも行われている。

 

【応募者に軸足を置いた文芸誌へ】

 昭和57年度(1982年度)の第19号からの招待作家制度の目的は「実力者を審査対象外とすることで受賞チャンスが拡大=文芸を志す方々の励みにがれば…」で、『市民文芸』の常連出品者で入賞・入選を重ねていた釘谷芳男(小説・随筆)、鈴木重作(同)、丸茂湛祥(同)、山下登記子(詩)、井出大作(俳句)の五氏が招待作家となり、『市民文芸』への作品提供は呼び掛けるものの、その作品は審査対象外とし、文芸誌上には招待作家作品として掲載された。

 この時代、市教委は、“市展”と呼ばれる絵画、写真、陶芸、染織、彫刻などの美術作品公募展において招待作家制度を導入しており、それを『市民文芸』に取り込んだものであったが、美術作品の公募展とは違った反応が強く示された。

 招待作家の一部から市教委に、「選評を得られない作品提供では創作意欲が湧かない」「まだ、勉強中と思っているだけに招待作家扱いとされるには戸惑いがある」などの声が寄せられ、果たせるかな、招待作家からの作品提供は年を追うごとに減少した。

 一方、応募者からは「手本となる作品、目標としたい作者の作品にふれることができなくなり寂しい限り」や「富士市の『市民文芸』のトップ賞は、それなりの作品で飾ってほしい」、さらに「応募点数がひとケタの小説まで招待作家制度を導入するのは、いかがなものか」などの声が寄せられ、その声は“行政への抗議”という形でローカル紙の投書コーナーにも寄せられた。

 この状況の中、昭和60年度(1985年)の『市民文芸』第22号の発行に合わせて誕生したのが市民文芸編集委員会の前身ともいえる“文芸を語る会”である。

 当時、ローカル紙・富士ニュースの編集長を担っていた海野庄三氏が招待作家の釘谷芳男氏と、『市民文芸』の常連応募者で文芸誌『赤富士』の発行に取り組んでいた長島澄子氏に呼び掛け、市教委と協調して誕生させたもので、その狙いは「応募者に軸足を置いた『市民文芸』へ」であった。

 誕生当時の文芸を語る会の活動は、『市民文芸』の表彰式後、入賞者以外にも参加を呼び掛け、自由に意見を述べる場の設定であった。文芸を語る会は、出された意見を収斂して市教委に提示。市教委は、その業務を不可侵領域とせず、応募者の声を真っ正面から受け止めて「招待作家制度に基づく新たな招待作家の指定作業は中断する」を決定。このほかにも応募者の声を受けて「ペンネームの使用を認める」の決定を下している。

 その後、文芸を語る会は、年二回ペースで「自由参加、茶菓代として会費500円」で、自由に意見を述べ合い、交流を図る場を設け、これが後の発行サポート機関の編集委員会と、文芸普及と交流機能を担う富士文芸フォーラム実行委員会の設置に結び付いていくことになる。

 文芸を語る会が取り組んだ交流会では、「作品発表の場を『市民文芸』以外にも求めてスキルアップを目指そう」との呼び掛けも行われ、その呼び掛け人である創設者の三人は行動をもって示し、静岡県教育委員会(以下、県教委)主催の『県民文芸』に挑戦。三人は入賞・入選を重ね、平成3年度(1991年)の『県民文芸』第31号随筆部門においては長島澄子氏の作品がトップ賞の芸術祭賞に輝き、これに続く奨励賞三点にも海野庄三氏と釘谷芳男氏の作品が選ばれ、実に上位四賞中、富士市勢が三賞を獲得という偉業を達成、文芸都市・富士市を県内に印象付けている。

 この『県民文芸』への挑戦をローカル紙の記者だった海野氏は、「富士市は工業都市のイメージが強いためか、市外者から『文化面は低調』と概念的に決めつけられることが多かった。文芸のみならず多くの文化人が文化向上に向けて精進を重ねている、それを市外に発信したかった。三人は、その思いで一致していた」と当時を述懐する。

 この文芸を語る会の三人の挑戦が刺激剤となって富士市から『市民文芸』と並行して『県民文芸』への挑戦者が相次ぎ、『県民文芸』誌上というグラウンドでの富士市勢の活躍をもって文芸都市・富士市を確固たるものとしている。

 

【発行サポート機関の編集委員会と

富士文芸フォーラム実行委員会の設置】

 文芸を語る会には、市教委の『市民文芸』担当課の職員も出席。参加者の意見を受け止めるとともに、発行にあたっての協力も要請している。その一つが楷書での執筆要請であった。

 この昭和60年代、ようやくワープロが普及しはじめたものの応募者の年齢層が高いこともあって、その作品は、ほとんどが手書き。判読が難易な行草体も多く、担当課には毎年、『市民文芸』の発行後、「誤植が多い」の声が応募者から相次ぎ、さらに職員による校正作業には限界もあった。そこで「誤植を減らし、校正の円滑化のために楷書で執筆を」となったものである。

 しかし、その徹底は図られず、こうした中で文芸を語る会のメンバーから「校正の協力を」の申し出があり、市教委は平成元年度(1989年度)、第26号の発行時に編集委員会を設置、委員を委嘱している。

 設置時に市教委が委嘱した委員は、文芸を語る会の創設メンバーである釘谷芳男、長島澄子、海野庄三の三氏と、長島氏の文芸仲間の高橋まさゑ氏、松井敏子氏、それに富士詩をつくる会の代表だった渡辺衛氏の六人で、その委員長には委員の互選で釘谷氏が就任している。

 この編集委員会の業務は、原稿整理と校正のサポート、それに審査員確保に向けての情報提供などで、審査には直接的にも間接的にも一切、関与しないことを市教委との間で厳格なルールとして定めている。このほか、編集委員会設置とともに発展的に解散となった文芸を語る会が取り組んでいた『市民文芸』の表彰式後の交流会の企画・運営も業務の一環としていくことを決めている。

 市教委と編集委員会の二人三脚による『市民文芸』の発行が続く中では、「短詩型作品の校正には、その道のベテランが必要」と、平成3年度(1991年度)の第28号から編集委員会に川柳作家の酒井八美氏を招き七人体制に…。続いて平成6年度(1994年度)の第31号から俳人の太田邦武氏を招き八人体制としている。

 編集委員会の委員は、高齢化や家庭の事情などで変更もあり、平成8年度(1996年度)には高橋氏が退任、その後任には『市民文芸』や『県民文芸』に小説や随筆作品を寄せ、後に『県民文芸』の審査員や日本ペンクラブの会員となる渡辺寛氏が就任。

 平成9年度(1997年度)には、編集委員会の設置時から委員長を担っていた釘谷氏と、詩の渡辺衛氏、川柳の酒井氏が退任、その後任に元・高校教員で随筆などの文芸作品で『市民文芸』や『県民文芸』で受賞を重ねていた田中繁可氏と、随筆や詩の分野で活躍していた山恭子氏が就任し編集委員会は八人体制から七人体制となり、この編集体制がしばらく続く。

 平成14年度(2002年度)に田中氏が退任して六人体制となり、以後、市教委は六人体制をもって『市民文芸』の発行サポート業務を委ねることを決め、編集委員会の理解を求めている。

 平成16年度(2004年度)には、入院加療中だった太田氏が死去。一時的に編集委員会は五人体制となっている。

 平成18年度(2006年度)の第43号の発行にあたって市教委は、市内の小中学校の教員、校長を担い、定年退職後に小説、児童文学、随筆などの種目に作品を寄せ、入賞・入選を重ねていた石田正洋氏に委員を委嘱して六人体制を復活させている。

 平成23年度(2011年度)に編集委員会の委員が大きく交代。釘谷氏の後を継いで委員長を担っていた長島氏が高齢を理由に退任の意向を表明、これに松井、山両氏も退任を申し出た。市教委及び他の委員が慰留するも翻意を得られず、市教委は新たな人材を『市民文芸』の応募者から求め、その結果、小説・児童文学の北河さつき氏、随筆の海野典子氏、詩の中根由香里氏の承諾が得られ六人体制を堅持。結果として退任女性三人に対して新任も女性三人となった。

 平成24年度(2012年度)には長島氏の後を継いで委員長を担っていた渡辺寛氏が高齢を理由に退任を申し出、その後任には児童文学に作品を寄せ、他の種目にも挑戦をはじめた元・高校教員の渡邉定信氏を迎えている。

 平成25年度(2013年度)の第50号の発行にあたっての編集委員会の委員は、石田正洋氏、海野庄三氏、北河さつき氏、海野典子氏、中根由香里氏、渡邉定信氏の六人で、釘谷氏→長島氏→渡辺寛氏とリレーしている委員長は、現在、石田氏が担っている。

 一方、市教委は、平成11年度(1999年度)に富士文芸フォーラム実行委員会(以下、文芸フォーラム実行委)を設置している。「文芸活動の、なお一層の振興を」と市教委が講師料などの予算付けを図り、その委託の器としての設置で、文芸フォーラム実行委のメンバーは『市民文芸』の編集委員会のメンバーが重複する形で就任している。

 文芸フォーラム実行委は、それまで編集委員会として取り組んでいた『市民文芸』の表彰式後の交流会を、その内容を充実させて受け継ぎ、さらに秋に三回から四回で構成する、愛称名を”チャレンジ21”とした『文芸入門講座』(現在名は『文芸あれこれ講座』)の新規事業に取り組んでいる。

 この文芸フォーラム実行委は、『市民文芸』への応募者から意見を受け止める機能も担い、市教委は文芸フォーラム実行委の設置を契機として長年の課題であった「公平な入賞・入選規定」に取り組んでいる。

 平成11年度(1999年度)の第36号までの『市民文芸』の収録作品は、現在と同じ入選以上。その入選以上は、発行予算とページ数の関係で応募作品の50%程度としているが、第36号までの50%適用は小説、児童文学、随筆、詩の四種目とし、ページ数が嵩張らない短歌、俳句、川柳の短詩型作品は、その応募を五首・五句以内とする中、「一首入選」「一句入選」として応募全作品を入選以上に位置付けて収録していた。

 これは、活字となり、一冊の本に作品が掲載される喜びの共有を図った市教委の配慮であるものの、応募作品の約半数が選外となって未掲載となる小説、児童文学、随筆、詩の応募者からは「公平性に欠けるのではないか」の指摘があった。

 しかし、「公平な入賞・入選規定」を設定しての掲載作品数の削減は、応募作品の減少と、『市民文芸』の販売面への影響が懸念され、長年、課題のままとなっていた。

 文芸フォーラム実行委は、市教委が抱え込んでいた、その課題を、設置年度の平成11年度(1999年度)の交流の場で参加者に提示。全作品掲載の短詩型作品の応募者からの反駁が予想されたものの、あにはからんや「審査というコンクール形式である以上、入選以上と選外をはっきりとさせてほしい」の声があがった。

 この懸念を払拭する反応を受けた市教委は、三年計画で段階的に短詩型作品も入選以上を50%とする激変緩和措置を取り入れての「公平な入賞・入選規定」に取り組み、それを敢行したものである。

 激変緩和措置が切れた後も懸念された応募作品の減少や、『市民文芸』の販売面に大きな影響はみられなかった。

 

【『市民文芸』から『ふじ市民文芸』へ】

『市民文芸』は、本年度、平成25年度(2013年度)の第50号から、その名称を『ふじ市民文芸』と改称している。県教委が『県民文芸』、そして富士市だけでなく県内の他市町にも公募方式の文芸誌の発行に取り組むところが多いことから富士市の文芸誌の明確化を図るための改称である。

 この第50号は八百五十冊印刷。『市民文芸』担当の市教委文化振興課のほか市内の一部書店で一冊500円の単価をもって販売することになっている。

 本年度から『ふじ市民文芸』と名称となった、この文芸普及・振興事業は、「応募者が高齢化、若手の応募者が増えない」をはじめ「一定の交代サイクルをもっての審査員の確保に苦慮」など、依然として古くて新しい課題を抱えている。

 応募点数(人数)をとらえれば、昭和51年度(1976年度)の第13号は三百三十一点を数え、多少の増減がありながらも三百点台をキープしていたものの平成に入ってからは三百点を下回る年度もあり、ここ数年は三百点を割り込んでいる。

 平成25年度(2013年度)の第50号の応募点数は二百六十六点で、前号(二百四十一点)を点数で二十五点、率で9・4%上回っているにせよ、全盛期との比較では“課題あり”。とりわけ、短歌、俳句、川柳の短詩型の落ち込みが顕著である。

 ここ十年余、編集委員会では、「短詩型には同好会が組織されており、普及・振興の機能は同好会に期待」とし、文芸フォーラム実行委による普及・振興機能は小説や児童文学、随筆、詩などに視点を当て、外部から招く講座講師も、その視点をもって依頼してきた。ここにきての短詩型の応募作品の著しい減少を編集委員会及び文芸フォーラム実行委では、今後の活動に向けての大きな反省材料と受け止めている。

 我々、編集委員会の報告は、これで閉じることになるが、執筆後、改めて発行に寄せた編集委員会先輩諸氏の労苦への敬意の思いが澎湃として湧き上がり、同時に、「市民(応募者)と共に築く文芸文化」を基本スタンスとする市教委の取り組み姿勢にも万斛の熱い思いを込めて拍手を送りたい。

『市民文芸』の半世紀を振り返る報告の執筆は、そうした静かなる感動の思いを抱く一方で、依然として抱え込んでいる課題を再認識する場ともなった。

 最後に報告の執筆を通して我々が肝に銘じた箴言を記して、この一文を閉じたい。

 

「我々の報告は終わってはいない。

  終わってはならないのだ」

 
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