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母は強し、加藤セツさん逝く

 戦中、戦後の混乱期、母として逞しく生き抜いた加藤セツさんが3月31日死去、きょう4月2日に通夜、あす3日に本葬が、ともに富士市中央町の妙祥寺で行われます。

 

 訃報を今朝のローカル紙の葬儀広告で知り、あれこれ生前の加藤セツさんを思い、その思いを抱いて所用があって訪れた富士西公園では桜が満開、辺り一面、光り輝いていました。その情景は、享年100歳、その加藤セツさんの人生に賛辞を、そして旅立ちにエールを送るような錯覚に陥りました。



           富士西公園の広場


 

          桜花が満開でした

 

 加藤セツさんを知ったのは、今から30数年前、自分がローカル紙の記者時代で富士市寡婦福祉会(現・富士市単親家庭の会)の行事取材の時。加藤セツさんは会長で、すでにご子息は成人していたことから若いお母さん方の相談役、そんな立場でした。

 

 その後、“芋サラダ”を通して親しく話をするようになり、富士市遺族会の役員も担っていること、総合食品会社の松加屋を切り盛りしていること、さらに関係者から戦中、戦後の混乱期、母として逞しく生きてきた女性であることを知らされました。

 

 “芋サラダ”は、加藤セツさんの会社である松加屋の広見店で販売していたもので、妻が広見団地内の保育園に勤務していたことから帰宅途中で買い求めて食卓へ。一度食したら忘れられない独特の味付けでした。

 

 加藤セツさんが松加屋の経営を担っていることを知って、取材の際、「僕は松加屋さんの芋サラダが大好きで…」と話すと相好を崩し、「そういってくれるとうれしいです。研究して、あの味付けに…」。“芋サラダ”からの取材を超えた親交の始まりでした。

 

 働くことが生きがいだったようで、高齢になっても吉原商店街にある本店の店頭に出ていたようです。

 10年ほど前、吉原商店街の空き店舗に事務所を構えていたNPО法人ハイネット・ふじで取材中、加藤セツさんが訪れ、「海野さんもいるじゃないの。これ、うちの新製品、食べてみて…」。ハイネット・ふじの職員によれば、「時々、差し入れをして下さる」とのことでした。

 

 最後にお見かけしたのは、数年前の終戦記念日にロゼシアターで開かれた戦没者追悼式、遺族代表として、ご子息に支えられながら檀上で献花する姿でした。

 支えられながらも一歩一歩、祭壇に進む姿には、艱難辛苦の連続であったろう人生を生き抜いた自負が読み取れ、覚悟を決め信念をもって生きてきたことの貴さが示されていました。

 

「桜花に負けじと、その人生に賛辞、そして旅立ちにエールを…」

                          合掌

 
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