11月21日付けのローカル紙の死亡欄に「奈木盛雄さん、97歳、国久保3−3−43」が掲載されていました。掲載は死亡届出のあった日から2、3日後となるため、多分、亡くなられたのは11月19日前後。97歳、その年齢からして「天寿を全うして…」と受け止めなくてはならないのですが、面識を得てから30数年間の長きにわたりお付き合いをいただき、晩年は激励を受け続けてきただけに、あれこれ奈木先生との思い出が走馬灯のように甦り、「生存中に、会いに行けばよかった」の忸怩(じくじ)たる思いが募っています。
奈木先生は、鈴木富男先生(2001年没)と並ぶ富士市を代表する郷土史家でした。
初めてお会いしたのは自分がローカル紙の駆け出し記者だった30数年前、当時の吉永公民館。「浮世絵展をやっている」との情報を受け公民館へ。現在のまちづくりセンターです。
当時の公民館は、村役場を再活用した建物で、浮世絵展は館長のコレクションの展示会。その館長が奈木先生でした。
取材によって浮世絵の研究だけでなく、読書普及活動に取り組み、さらに郷土史の研究にも取り組んでいることを知り、市役所退職後は郷土史研究に没頭。
富士市教育委員会が2013年3月に発行した『富士市の災害史 過去に学ぶ』と題した災害史は、奈木先生が執筆した『富士市消防史』が資料ベースとなっています。
ライフワークとしていた郷土史研究は1853年建造のロシア軍艦ディアナ号の遭難でした。
エフィム・プチャーチン提督が乗船したディアナ号は、1854年(安政元年)に日露和親条約締結のために来航、箱館・大坂を経て下田を訪れた際、安政東海地震による津波で大破、その修理のために戸田港に向かう途中、今後は嵐によって漂流、富士市の宮島村沖で沈没した、とされています。
その沈没寸前、宮島村の村人は命懸けで乗組員を救助。国境を越えての人類愛を示す出来事でした。
その後、プチャーチン提督らは陸路、戸田村に向かい、アレクサンドル・モジャイスキーらの指導で日本の造船工により帆船ヘダ号を建造してロシアに帰国していますが、このヘダ号は日本の洋式造船技術が伝わるきっかけとなったものです。
波瀾万丈のディアナ号に秘められた貴重な史実。奈木先生は、それを著書『駿河湾に沈んだディアナ号』(2005年1月、元就出版社)にまとめ江湖に送り出しています。
著書『駿河湾に沈んだディアナ号』(表紙)
しかし、念願の著書の発行、そしてディアナ号の研究と並行して富士市日ロ友好協会の設立にも参画、「これから…」という時に大病をして声を失い、ここ10年余、公の場に出ることは避けていたようでした。
7年半前、自分はローカル紙の記者から富士市の市議会議員に…。議員活動の一環として年2回発行している議員活動報告&後援会だよりを郵送するたびに、郷土史研究家らしい几帳面な字でびっしりと読後感想を記した葉書をいただき、いつも末尾には「海野さんらしさを失わずに市民のために頑張ってほしい」、その一文が記されていました。
今、現役で亡くなった俳優の健さん(高倉健)が座右の銘としていた比叡山大阿闍梨酒井雄哉氏の言葉『行く道は精進にして、忍びて終わり、悔いない』にスポットが当てられています。
華々しい場を好まなかった奈木先生は、その言葉が諭す「人生は努力して、辛抱して、それで終われば悔いはない」の実践者であった、そう思っています。
合掌