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中国人殉難者の慰霊祭に参列しました

 きょう7月5日、富士市田子浦地区にある中丸平松墓地で開かれた「中国人殉難者慰霊祭(以下、慰霊祭)」に参列。慰霊祭は、地元の中丸浜区と富士市日中友好協会が田子浦地区仏教会の協力を得て、毎年、この時期に墓地内の慰霊塔で開いているもので、自分、海野しょうぞうは日中友好協会の副会長としての参列でした。


             午前9時に慰霊祭開始


 田子浦地区仏経会の僧侶による読経が流れる中で参列者が焼香


 富士市内では、第二次世界大戦の末期、昭和19年ごろ、田子浦地区で飛行場の建設が進められ、日本の占領下にあった中国から500人余が強制連行され建設業務に従事、想像を絶する過酷な労働環境により52人が亡くなったといわれます。

 

 慰霊祭は、その史実を風化させずに後世に伝え、不戦・平和の輪を広げていくことを狙いに開催しているもので、中丸浜区の皆さんがテント設営や椅子などを準備、日中友好協会が受付や進行などを担当。

 例年通り、小長井義正市長や、市議会を代表して影山正直議長、田子浦地区の区長や周辺の住民、日中友好協会の役員などが参列。

 このほか、今年は終戦70周年の節目であることから広く参列を呼び掛け、中国大使館友好交流部の孟素萍(モウスヘイ)1等書記官や富士商工会議所の井出稔会頭も参列して下さいました。

 

 式辞に立った日中友好協会の渡辺会長は、年間を通して慰霊塔の清掃などに取り組んでいる中丸浜区の皆さんに感謝の思いを伝えながら「昨今、日中関係は厳しい局面にあるが、こうした時こそ民間の日中交流が大切であり、小さな行事であっても粛々と取り組むことが不戦・平和への一里塚になると信じている」と参列者に語り掛けました。


 慰霊祭で式辞を述べる日中友好協会の渡辺敏昭会長

 

 追悼の言葉では、小長井市長が富士市民を代表する形で慰霊の言葉を捧げたほか、地元の中丸浜区の藤原区長が「二度と、このような悲劇を繰り返さないために、この慰霊祭を継承していくのが私達の使命と思っている」との決意を慰霊塔に投じました。


 市民を代表して追悼の言葉を述べる小長井市長


 地元の取り組みと今後に向けての決意を伝える

                中丸浜区の藤原区長さん

 

 また、孟素萍1等書記官の追悼の言葉は、「戦時中、日本の135箇所に中国人が強制連行され過酷な労働に従事。田子浦飛行場も、その一つで、亡くなった52人は19歳から63歳、平均年齢は36歳」と殉難者名簿を紐解きながら歴史を振り返り、その上で「二度と、このような悲劇を繰り返さないために、歴史を鏡として未来に目を向けていきましょう」でした。


 中国日本大使館の孟素萍1等書記官です

 

 慰霊祭準備のために日中友好関係者は午前8時に集合、その開始は同9時で、小雨であったものの雨が降り続き、そうした中でのテント設営や撤去などに取り組んで下さった地元の中丸浜区の皆さんに感謝多々です。

 

 慰霊祭終了後、日中友好協会では孟素萍1等書記官を招待しての昼食の場を設け、その場所は「田子浦地区」。で、地元グルメの生しらす丼の予定でしたが「不魚で生しらすの水揚げがない」ということで急遽、釜茹でしらす丼。内心、「中国の方、生しらす、大丈夫」と思っていたので「ヤレヤレ」でしたが、食後、孟素萍1等書記官と通訳の女性2人は「日本にきて刺身が好物になりました」。先入観って、よくないですよネ。

 

 昼食後、帰りの東海道新幹線の時間まで1時間余あったことからロゼシアターで開かれていた市展・書道の部の会場にも出向き、日本、中国共通の文化である書道について、あれこれ談笑(もちろん通訳を介してですが…)。「ちょっとばかり国際交流に貢献できた」、そんな思いを抱き、連日の雨続きでも心は晴れやかでした。

 

   二つの慰霊碑

 

 ところで、慰霊塔には、二つの慰霊碑が建立されています。それを少しばかり解説します。

 

 一つは、『中華民国人興亜建設隊故歿者之碑』と記されたもので、飛行場工事請負人であった熊谷組が殉難者の霊を慰めるため昭和23年(1948年)7月に建立。

 

 もう一つは『中国人殉難者慰霊碑』と記されたもので、その建立は平成2年(1990年)7月です。

 

 昭和23年の『中華民国人興亜建設隊故歿者之碑』の建立後、関係者や地元の方々で慰霊祭が行われてきたものの、年を経るごとに「中国の人達が強制連行されて飛行場建設に従事、過酷な労働環境により亡くなった人もいた」という戦争史実を体験した人が少なくなり、「史実を伝える副碑的なものが必要」、さらに中国大陸に中華人民共和国が成立した以降、「中華民国」の国名は台湾を指すのが一般的となった、などから平成2年、関係者の熱意の結集で二つ目の慰霊碑である『中国人殉難者慰霊碑』の建立となったものです。

 

 この平成2年の『中国人殉難者慰霊碑』の建立時、自分はローカル紙の記者で除幕式を取材。確か、市も、その建立に向けて動き、費用は飛行場請負人であった熊谷組に求め、除幕式には中国大使館の関係者も列席、盛大に行われたことを昨日の出来事のように鮮明に記憶しています。

 

 以下に史実を伝える平成2年建立の『中国人殉難者慰霊碑』の碑文を記します。

 

中国人殉難者慰霊碑

 

 太平洋戦争の末期、中国から強制連行されてきた504人が旧富士郡田子浦村に陸軍が建設中の富士飛行場へ到着、「興亜建設隊」に編入され、作業に従事させられた。

 当時の劣悪な食料事情と荷重な労働の中で、52人が故国にはせる想いも空しく現地で亡くなられ、この中丸共同墓地へ埋葬された。

 遺骨は昭和29年(1954年)5月、市内福泉寺において地元関係者による盛大な慰霊祭が行われた後、同年11月に懐かしの祖国へと送還された。

 なお、この「中華民国人興亜建設隊故歿者之碑」は、飛行場工事請負人であった熊谷組が殉難者の霊を慰めるため昭和23年(1948年)7月に建立し、以後、関係者が手厚く供養してきたものである。

 このたび、悠久の日中友好を念願し、あらためて殉難者の冥福を祈りつつ建立の経緯を記したものである。

                   平成2年(1990年)7月


 上の写真は昭和23年建立の『中華民国人興亜建設隊故歿者之碑』

           の碑に刻まれている中国人殉難者の氏名です

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