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『ふじの山(富士山)』の作詞者、巌谷小波の句碑探訪

 

 6月上旬、親友を誘い、富士市吉永北地区の赤渕川左岸に建立されている『巌谷小波の句碑』に行ってきました。6月定例会の一般質問登壇(23日)に向けての30年ぶりの探訪。懐かしく、30年ぶりの歳月を思い、感傷的な思いも…。長文となりますが、しばし、探訪記にお付き合い下さい。

 

児童文学者の巌谷小波

   (インターネットより)

 

 赤渕川左岸に建立されている『巌谷小波の句碑』です。句碑の横に解説文が掲示されていますが、これは教育委員会が設置したものではなく、「巌谷小波来訪の史実、そして巌谷小波が『富士山』の作詞者であることを後世に伝えたい」、そんな思いから地元の吉永郷土史研究会が平成22年6月に設置したものです

 

 自分が敬愛、「人生の師」と仰いだ1人に鈴木富男先生(2001年、平成13年没)がいます。富男先生は、富士市の郷土史の第一人者で、駿河郷土史研究会を立ち上げた方でした。

 

 30年前、市庁舎6階にあった市史編纂室に嘱託職員として勤務されており、市史の編纂にあたっておられました。

 当時、自分は入社10年ほどの富士ニュースの記者。「郷土史で分からないことがあれば富男先生に…」と市史編纂室を訪問することが多く、電話して「富男先生いますか」と問えば「ワッチ」、ドアを開ければ「ヨオ!」、そんな自然体で迎えて下さり、あれこれ教えを受けてきました。

 

 そんな中のある日、「海野さん、わしゃ、70歳の時に車の免許証を返上したけど、最近、マイカーで調査に訪れた場所が懐かしく思い出される。海野さんの時間に合わせるから連れて行ってくんな」

 

 もちろん、「いいですよ。取材がてらお供させていただきます」。これが富士ニュース紙面に不定期で連載がスタートした『ふるさと散歩』のきっかけでした。

 

 以後、戦前、桑崎の地で隆盛を極めながらも忽然と消えた新興宗教で、戦前における精神疾患の民間治療機能も担った『不二大和同園』の遺構、「愛鷹山は古代人が造ったピラミッド」と主張する愛鷹山中の仙人居住の地などを訪れ、『巌谷小波の句碑』も、そうした中の一つでした。

 

 巌谷小波(いわや・さざなみ、1870年・明治3年7月4日−1933年・昭和8年9月5日)は、明治から大正にかけて活躍した日本近代児童文学の開拓者とされた人で、おとぎ話の『一寸法師』や『花さか爺さん』、『桃太郎』などを世に送り出し、『富士山』というタイトルで呼ばれることの多い文部省(現・文部科学省)唱歌『ふじの山』の作詞者(作曲者は不詳)としても知られています。

 

 恥ずかしながら、当時、巌谷小波という児童文学者を知らず、当然、『富士山』の作詞者であることも知りませんでした。

 

 根方街道を東に向かい、市立吉原商業高校(現・市立高校)入口の少し先の交差点を左折、県道76号線を北上して間門集落へ右折。ここからは車1台がやっとの山道で、その車中、富男先生は、こんなことを話されました。

 

巌谷小波が活躍した時代、まだ書籍、本というものが一般には普及しておらず、子ども達が購入して読むこともままならなかったことから巌谷小波は、おとぎ話の題材探しも兼ね、全国を行脚しての口演活動、いわゆる語り部活動に取り組んでいた。その移動手段は鉄道だったといわれる。こうした中、巌谷小波は1921年、大正10年9月11日に吉永北地区の鵜無ケ淵にあった吉永第二小学校の前身である鵜無ケ淵尋常高等小学校を訪れ『おとぎ話口演会』を行っている。地元の人達が口演会の開催を熱望、それを巌谷小波が受け止めての来訪で、前日の10日に当時の鈴川駅、現在の東海道吉原駅に降り立ち、10日は素封家の蓬生家に民泊、翌朝、迎えに来た住民が用意した馬に乗って会場の鵜無ケ淵尋常高等小学校を目指し、小学校近くの赤淵川左岸の山道で『大瀧や猿が塒(ねぐら)の玉簾(たますだれ)』の句を詠んでいる。この地には、『猿棚の滝』と呼ぶ高さ40辰ら50辰梁腓な滝があり、滝壺に湧き水があるものの、普段は水の流れがなく断崖絶壁。しかし、ひとたび大雨が降ると、ごうごうたる滝となって水が流れ落ち、その瀑布は壮観と言われる。この地を巌谷小波が通った際、多分、豪雨の後で、瀧には玉簾のように水が流れ落ち、瀧の内側には、その場所を塒としている野生の猿達がいた、そんな情景を馬上から見て、詠んだものと思われる。鵜無ケ淵尋常高等小学校での口演会後、当時の吉永村の青年団が中心となって巌谷小波来訪の史実を後世に伝えるために、『大瀧や猿が塒の玉簾』の句を詠んだ場所に自然石の高さ2値召龍臠蠅魴立した」

 

 赤渕川左岸に、その句碑は建立されていました。ここで一つの疑問が生じました。なぜ、馬で半日もかかる場所に、当時、有名人であった巌谷小波という児童文学者が訪れたのか…。

 

 その疑問に富男先生は、こんな推論を語られました。

 

「巌谷小波は、口演会やおとぎ話の題材探しに全国を行脚したが、その移動は鉄道利用が中心で、何回も東海道線を利用して富士市からの富士山を眺望したはず。よって、『頭を雲の上に出し、四方の山を見下ろして…』の詩の内容からも『富士山』は富士市から見た姿といって間違いないだろう。発表は1911年、明治44年で、これ以降、広く歌われ、富士山を一度見たい、富士山を一度登ってみたい、そうした意識が全国に広まったことが想定される。当時の吉永村の人達は、郷土の誇りで、その不変な雄大さから精神的な支えともなっている富士山を全国に紹介してくれた巌谷小波に感謝の思いを込めて口演会を企画し、その熱意に巌谷小波が心打たれ、この地を訪れたのだろう。句碑は、巌谷小波来訪の史実だけでなく、あまりにも広く知られ、今なお、愛され続けている『富士山』という歌の誕生秘話も今に伝えている」

 

 30年前に訪れた際、巌谷小波が見たであろう『猿棚の瀧』は生い茂った樹木で遮られ、見ることはできませんでしたが、ここからが富男先生の凄いところ。すでに80歳を超えていたものの「崖を降りて瀧を見に行こう」。

 急峻な崖に足元を何度となくとられながらもどうにか滝壺に到着。水の流れはなく断崖絶壁のようでしたが、確かに半円を描いた雄大な滝の姿が、そこにありました。

 

 今回の30年ぶりの訪問。助手席は富男先生ではなく親友。その違いはあるものの、同じ道を辿っての訪問でした。

 30年前は、車1台がやっとの山道で「崖から転落しないように…」と走行時の監視役として親友を誘ったのですが、多少、整備されたようで、舗装もされており、難なく句碑に到着しました。

 句碑を写真撮影、そして30年前と同じように「滝壺に…」。しかし、ここから難儀。どうにか辿り着いたものの、30年前の半円を描いた雄大な滝の姿はなく、樹木が生い茂る断崖絶壁があるだけ。どこが瀧なのか分からない状態でした。

 

道路脇には『猿棚の瀧』入口の立派な案内石柱がありました。「地元の皆さんが建立した」(松本氏)とのことです

 

      『猿棚の瀧』と思われる断崖絶壁です

 

 滝壺で…(同行を願った親友が撮影)

 

 後日、吉永地区在住の郷土史に詳しい松本貞彦氏(富士市議会議員)に「瀧は、どこに…」と問うと、「赤渕川は濁流によって、その姿を変える」とのことでした。

 

『富士山』という歌の誕生秘話も今に伝えているも『巌谷小波の句碑』は、戦後、赤渕川右岸に県道76号線が整備されたことから句碑のある左岸の道は地元の人達が使用するだけで、これまで文化財、そして観光の面からもスポットが当てられることがなかっただけに、埋没した貴重な史実、郷土遺産となっています。

 ゆえに今回の一般質問で、30年ぶりに訪れて句碑の現況を確認した上で、句碑の背景にある『富士山』という歌の作詞者は巌谷小波で、その詞は富士市から見た富士山である、という貴重な史実に目を向け、句碑と、その周辺の整備を進めて富士市を代表する観光スポット化を図っていくことを強く訴えました。

 

 この訴えが結実するか、どうかは未知数ですが、自分なりに、その貴重な史実を、あらゆる機会を通じて語り続けていこうと決めています。多くの教えを受けた富男先生への返礼の思いを込めて…。自分が、この世から消えているであろう、さらに30年後にも貴重な史実が残り、語り継がれることを願って…。

| - | 22:19 | comments(1) | - |
コメント
「ふじのお山」の秘話、初めて知りました。富士市民として恥ずかしい限りです。ありがとう、ございました。
| 富士市民です | 2016/07/01 12:33 AM |
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