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2016年、中国人殉難者慰霊祭に参列しました

 梅雨が明けない湿気を帯びた大気に強烈な陽射し、朝から気温がグングンと上がった、きょう7月3日午前9時から富士市田子浦地区にある中丸平松墓地で開かれた「中国人殉難者慰霊祭(以下、慰霊祭)」に参列してきました。

 

 慰霊祭は、地元の中丸浜区(遠藤隆区長)と富士市日中友好協会(渡辺敏昭会長)が田子浦地区仏教会の協力を得て、毎年、この時期に墓地内の慰霊塔で開いているもの。自分、海野しょうぞうは日中友好協会の副会長としての参列でしたが、役目は雑用係と記録写真係でした。

 

午前9時の開始前、酷暑対策として日中友好

協会の女性陣が参列者にお茶を配布しました

 

     田子浦地区仏経会の僧侶による読経です

 

      読経が流れる中で参列者が焼香

 

 富士市内では、第二次世界大戦の末期、昭和19年(1944年)頃、田子浦地区で飛行場の建設が進められ、日本の占領下にあった中国から500人余が強制連行され建設業務に従事、想像を絶する過酷な労働環境により52人が亡くなったといわれます。

 

 慰霊祭は、その史実を風化させずに後世に伝え、不戦・平和の輪を広げていくことを狙いに開催しているもので、中丸浜区の皆さんがテント設営や椅子などを準備、日中友好協会が受付や進行などを担当。

 例年通り、小長井義正市長や、市議会を代表して影山正直議長、田子浦地区の区長や周辺の住民、日中友好協会の役員などが参列。

 このほか、今年は田子浦地区在住の市議会議員にパイプ役を担っていただき、中丸浜区と日中友好協会が連携を強化、慰霊祭を田子浦地区全体に周知する横断幕を登場させ、当日も中丸浜区の皆さんが案内板や案内役を担当、さらに小中学生にも平和教育の場として参加を呼び掛け、こうした取り組みが実る形で参列者は例年より3割ほど多い100人余を数えました。

 

中丸浜区と日中友好協会が連携を強化、慰霊祭を田子浦地区全体に周知するために登場させた横断幕です

 

 田子浦地区仏教会の僧侶による読経が流れる中で焼香が行われ、これに続く式典で挨拶に立った日中友好協会の渡辺会長は、年間を通して慰霊塔の管理に取り組んでいる中丸浜区の皆さんに感謝の思いを伝えながら「昨今、日中関係は厳しい局面にあるが、こうした時こそ民間の日中交流が大切であり、小さな行事であっても粛々と取り組むことが不戦・平和への一里塚になると信じている」と参列者に語り掛けました。

 

慰霊祭で式辞を述べる日中友好協会の渡辺敏昭会長

 

 追悼の言葉では、小長井市長が富士市民を代表する形で殉難者に慰霊の思いを捧げました。

 

    市民を代表して追悼の言葉を述べる小長井市長

 

 自分も雑用&記録写真係で参列しました

 

 

     二つの慰霊碑

 

 ところで、慰霊塔には、二つの慰霊碑が建立されています。それを少しばかり解説します。

 

 一つは、『中華民国人興亜建設隊故歿者之碑』と記されたもので、飛行場工事請負人であった熊谷組が殉難者の霊を慰めるため昭和23年(1948年)7月に建立。

 

 もう一つは『中国人殉難者慰霊碑』と記されたもので、その建立は平成2年(1990年)7月です。

 

 昭和23年の『中華民国人興亜建設隊故歿者之碑』の建立後、関係者や地元の方々で慰霊祭が行われてきたものの、歳月の流れにより「中国の人達が強制連行されて飛行場建設に従事、過酷な労働環境により亡くなった人もいた」という戦争史実を体験した人が少なくなり、「史実を伝える副碑的なものが必要」、さらに中国大陸に中華人民共和国が成立した以降、「中華民国」の国名は台湾を指すのが一般的となった、などから平成2年、関係者の熱意の結集で二つ目の慰霊碑である『中国人殉難者慰霊碑』の建立となったものです。

 

 この平成2年の『中国人殉難者慰霊碑』の建立時、自分はローカル紙の記者で除幕式を取材。確か、市も、その建立に向けて動き、費用は飛行場請負人であった熊谷組に求め、除幕式には中国大使館の関係者も列席、盛大に行われたことを昨日の出来事のように鮮明に記憶しています。

 

 以下に史実を伝える平成2年建立の『中国人殉難者慰霊碑』の碑文を記します。

 

 

   中国人殉難者慰霊碑

 

 太平洋戦争の末期、中国から強制連行されてきた504人が旧富士郡田子浦村に陸軍が建設中の富士飛行場へ到着、「興亜建設隊」に編入され、作業に従事させられた。

 当時の劣悪な食料事情と荷重な労働の中で、52人が故国にはせる想いも空しく現地で亡くなられ、この中丸共同墓地へ埋葬された。

 遺骨は昭和29年(1954年)5月、市内福泉寺において地元関係者による盛大な慰霊祭が行われた後、同年11月に懐かしの祖国へと送還された。

 なお、この「中華民国人興亜建設隊故歿者之碑」は、飛行場工事請負人であった熊谷組が殉難者の霊を慰めるため昭和23年(1948年)7月に建立し、以後、関係者が手厚く供養してきたものである。

 このたび、悠久の日中友好を念願し、あらためて殉難者の冥福を祈りつつ建立の経緯を記したものである。

                  平成2年(1990年)7月

 

 

 この慰霊碑に記されている「中国から強制連行されてきた」に対しては異論も出ています。

 戦中、富士市における飛行場建設だけでなく、全国各地に多くの中国人労働者が訪れています。華人労務者(かじんろうむしゃ)と呼称される人達です。

 華人労務者は、日本が軍国主義に突き進む中で男性が戦地に送り込まれて労働力不足となり、それを補うために日本の企業が中国大陸で雇用した中国人。異論は、「華人労務者の中には半強制的に日本に移送された者がいたにせよ、雇用に応じた方々であり、それを無視する形で“強制連行”と決めつけるのは史実を歪曲している」です。

 

 しかし、訪日が、どのような理由、経過であろうと過酷な労働条件下で多くの中国人が異国の地で無念の死に至ったことは厳然たる事実であり、自分は、「その1点をとらえての慰霊祭は意義あるもの」、そう受け止めています。

 

 さらに、「慰霊祭を重ねることで、史実の実相への、日中それぞれの理解が深まり、再び繰り返してはならない史実という共通認識になるのでは…」、そんな期待も抱いています。

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