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水彩画家、天野仁さんへの鎮魂記

 購読紙の8月6日付けの「おくやみ申し上げます」の死亡欄に“天野仁(あまの・ひとし)氏”の名があり、驚きと共に、何か信じられず、脱力感に襲われました。天野さんは、富士市を代表、いや静岡県を代表する水彩画家、そして、自分、海野しょうぞうの友人でした。

 

 天野さんの作品、『バスキア賛歌』。昨年の第49回市展に

     招待作家として出品した作品です(図録から、部分)

 

 記事によれば、4日午前11時51分に死去。70歳。自宅は富士市大渕。6日に通夜、7日に本葬と記されていましたが、通夜の6日は地元の夏まつりで舞台進行役を担うことになっており、本葬の7日には早朝、東京に出掛ける予定があったことから弔電のみ。最後のお別れができなかったことによる悔恨の念から、この鎮魂記を打ち込んでいます。

 

 自分が天野さんと初めて出会ったのは、前職の富士ニュースの記者、それも駆け出し記者時代の40年も前です。正確には、ご本人ではなく、当時の富士市委員会が主催していた“市展”と呼ばれる公募展の絵画部門に出品した水彩画作品でした。

 

 当時、絵画部門の出品作品は、そのほとんどが油絵や岩絵の具を使用した日本画という中での水彩画で、自分の脳裏にあった水彩画は、小中学生が美術の授業で使用する画材、または作家と呼ばれる方々が作品づくりにあたってスケッチとして使用する画材、そうしたものでした。

 

 しかし、天野さんの、その水彩画作品は、緻密に赤ちょうちんの屋台を描き出したもので、赤ちょうちんの放つ光を巧みにとらえ、それまで自分が抱いていた水彩画の概念を打ち消す衝撃的な作品でした。

 作品からは、肉体労働の一日が終わり、赤ちょうちんの屋台に立ち寄り、コップ一杯の酒を愉しむ男の哀愁、そんなことも彷彿とさせる、ドラマを感じ取ることができるものでした。

 

 その後、水彩画の世界で注目を浴び、数々の賞に輝き、“市展”も招待作家となっていますが、天野さんは受賞に甘んじることなく、その作風は変容を重ね、何か水彩画の新たな可能性の挑戦者、そんな感じでした。青の時代から変容を重ねたピカソのような…。

 

 実際に天野さんの面識を得たのは、最初に作品と出会った数年後、富士市美術協会の定期展の会場でした。自分が感じてきた作品評を伝えると「僕の作品を理解して下さって、ありがたい」、そんな事を話されたと記憶しています。

 

 以後、年に1、2回、作品展の会場で出会ってきました。

 

 自分は9年半前に市議の道に進んでからも、できる限り美術関係の作品展会場に出向いています。絵画をはじめとする美術全般の鑑賞が趣味ということもありますが、天野さんら記者時代に築くことのできた作者との繋がりを保ち続けたい、そんな思いもあってのことです。

 

 とりわけ、親しく話をする、話ができる関係にあった天野さんとは、会うたびに、互いに「一度、飲みながら、じっくり、あれこれ話をしましょうよ」、そんな約束もしていたのですが、果たせないまま歳月が流れていました。

 

 訃報を知って天野さんが副会長を担っていた富士市美術協会の関係者に電話を入れると、昨年、奥様を亡くされ、以後、体調を崩して入院していた、といいます。

 

 昨年、協会の定期展で会った際、「急に老け込んだ」、そう感じたのですが、奥様が大変な時期、または亡くなられた直後だったかもしれません。

 

 友人と思い、友人と決め込みながらも、そうしたことを察することができなかったことに忸怩(じくじ)たる思いを抱いています。「自分が情けない、天野さんに申し訳ない」と。

 

 絵画だけでなく芸術の世界は厳しく、プロとして芸術を生業としていける人は、ごく一握り。天野さんも数々の賞に輝きながらも本業を持ち、寸暇を惜しんで創作活動を続け、さらには団体役員を担って富士市の芸術文化の振興に大きく貢献してきました。

 美術年鑑といったものに、その名が載らなくても、地方で頑張り続けた天野さんの存在と金字塔の人生を生涯忘れまい。今となっては、そう心に刻むことしかできない辛い時間が流れています。

 

 ただただ、合掌

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