<< 生活排水処理の説明会が開かれましたが、成果は「?」 | main | 天皇陛下、83歳の誕生日を迎えて… >>
富士市出身の偉大なるプロ野球選手・指導者の加藤初氏逝く

 きょう(12月21日)の購読紙(静岡新聞)の朝刊でプロ野球の巨人などで投手として活躍した富士市出身の加藤初(かとう はじめ)氏の訃報記事が掲載されており、驚きとともに、今の市議会議員の立場で、ある思いにも駆られました。

 

訃報記事を伝える、きょうの朝刊です

 

 記事によれば…

 

「11日午後2時32分、直腸がんのため静岡市内の病院で死去、66歳だった。静岡県富士市出身。巨人が20日に発表した。葬儀・告別式は既に行われた」

 

 野球なるものは小学校時代にキャッチボール程度。プロ野球観戦もプロ野球ファンの方には申し訳ないものの「興味なし」。

 

 しかし、加藤氏は、自分より少しばかり上であるものの、ほぼ同世代の富士市出身者。加えてプロ転向前の社会人野球の大昭和製紙野球部に所属していた1960年後半から1970年前半にかけ安田猛選手とともに二枚看板の投手として都市対抗野球などで活躍。自分がローカル紙の記者として富士市に本社を置く大昭和製紙野球部の大会取材をした時代、加藤氏はすでにプロに転向していたものの富士市及び大昭和製紙野球部から誕生したプロ選手として常に注目し、その活躍を伝える新聞紙面に心を躍らせた記憶があります。

 

 加藤氏は、富士市立吉原商業高校(現・富士市立高校)から亜細亜大学に進み、同大を中退して、当時、社会人野球部の名門だった大昭和製紙野球部に入部。都市対抗野球などで活躍し、1971年にドラフト外で西鉄に入団、念願のプロ野球選手となっています。

 

 当時の西鉄は“黒い霧事件”のため主力投手の退団が相次いで戦力が大きく落ちていた頃。これがドラフト外で入団した加藤氏には実力発揮のチャンスとなり、入団初年度の1972年に、いきなり17勝をあげて同年のオールスターゲームにも選出され、新人王にも輝いています。

 

 1976年に巨人に移籍。同年4月18日の広島東洋カープ戦(広島市民球場)で日本のプロ野球界51人目となるノーヒットノーランを達成。この年、15勝4敗の好成績をあげ、巨人の前年最下位から一気に優勝に貢献。

 

 その後は、ケガや病気で戦線を離れることがあったものの、巨人の主力投手として息長く活躍し、1990年に西鉄―太平洋―巨人で通算19年間のプレーをもって現役を引退しています。

 

 引退後の1991年からフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、1995年から再び西部の投手コーチとしてグラウンドに立ち、2002年から台湾や韓国のプロ野球指導者として活躍、アジアにおけるプロ野球スポーツの普及にも貢献しています。

 

 昭和生まれの方なら富士市出身の偉大なるプロ野球選手・指導者の加藤氏を知っている方が多いと思いますが、2002年から海外に活躍の場を移したこともあって、近年では、その“良き昭和の思い出・加藤氏”を語る人は少なくなっており、こうした中での新聞報道による訃報でした。

 

 冒頭の「今、市議会議員の立場で、ある思いにも駆られました」とは…。

 

 今年、市制50周年を迎えた富士市は、「名誉市民表彰条例」を有するものの、その運用に慎重で、市長提案、議会が可決しての第1号誕生は2002年12月4日で、素粒子物理学者の戸塚洋二氏(2008年7月10日死去)、第2号は市制40周年を迎えた2006年の9月11日で、富士市の初代市長で国会議員、県知事を担った齋藤滋与史氏、2人しかいません。

 

 人口減少時代を迎えて都市間競争が激しくなる中、郷土に愛着と誇りを持つ“シビックプライド(civic pride)”の醸成が強く求められ、名誉市民の称号授与は、その醸成に向けての有力なアイテムになるはずです。

 乱発は禁忌とすべきであるものの、称号授与の対象は学術や政治だけでなくスポーツや芸術文化にも目を向けるべきで、そうした自治体も数多くあります。

 

「訃報が届いた今になって…」との批判を甘んじて受けることを覚悟して記せば、「加藤氏は名誉市民の称号授与に値する偉大な方だった」。合掌

| - | 23:52 | comments(0) | - |
コメント
コメントする









CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< October 2017 >>
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT