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我が戦友、渡邊孝嗣さん逝く!

 

 ご当地グルメでまちおこしの『東海・北陸B―1グランプリin富士』初日の2月11日、富士山は、その麗姿を見せ、市議会議員として開会式に臨んだ中央公園には多くの笑顔が交差していました。その雰囲気に順化して気分爽快となったのですが、夕刻の電話で一転、いいようのない寂寥感に陥り、1日経過した今も出口の見出せない闇夜にいるような状態です。

 

 その電話は、富士市岩本にお住まいだった渡邊孝嗣さんの訃報。電話を下さった親族は、「たった今、午後4時48分、自宅で亡くなりました。亡くなる直前、『俺が死んだら海野さんに知らせてほしい』、そう申しておりましたので…」。

 

 渡邊さんは、行政福祉を補完する富士市社会福祉協議会(以下、市社協)に勤務されていた方で、7年前に事務職トップの常務で退任されています。

 毎年、正月にご挨拶に伺っていたのですが、3、4年前から「体調が悪い」と話し、気になっていたのですが…。

 

 死因は膵臓がん、末期は自宅で過ごし、家族に看取られての70歳の生涯でした。

 自分より6歳年上でしたが、得手勝手に“親友”と決め込んでお付き合いを願い、誤解を恐れずに記せば、「福祉とは…」、それを求め続けた“戦友”でした。

 ここでの“戦友”の敵とは、福祉向上に向けて立ちはだかる有形無形の壁、そしてシステムです。

 生業とはいえ福祉向上のために生涯を捧げた渡邊さんを人知らず寂しく旅立たせてなるものか、そんな思いをもって、この一文を記します。

 

 渡邊さんに初めて出会ったのは、第1次オイルショックの影響が色濃く残っていた昭和50年(1975年)、自分は富士ニュースの駆け出し記者、渡邊さんは、当時、市庁舎1階に間借りしていた市社協の中堅職員でしたが、当時の市社協体制は、確か5人程度だったと記憶しています。

 

 時代は官から民へと移行。福祉分野が顕著で、例えば国際障害者年の昭和56年(1981年)に行政主導で開かれた『第1回市民福祉まつり』は、第3回から民間主導に切り替わり、その事務局は市から市社協へ。就労支援施設の管理・運営も市社協に移管。このほか『社会福祉センター』や『成年後見支援センター』『くらし・しごと相談窓口』の管理・運営を担い、市社協の本来業務として市社協地域版である地区福祉推進会の発足やボランティアセンターの開設、ふれあい・いきいきサロンの開設、おもちゃ図書館の開設などに取り組み、その間、事務所は何回となく転居が求められ、現在のフィランセ新館(東館)に落ち着いたのは平成14年(2002年)でした。

 

 時代ニーズへの対応で多忙を極めながらも渡邊さんは、市社協が行政の下請け機関的な扱いを受けた際にも不満を口にせず業務に励んできました。

 

「“親友”を超えての“戦友”」、そう自分が決め込んでいるのは、2つの出来事からです。

 

 その1つは、昭和50年代前半、渡邊さんが先頭に立ってのボランティアの輪の広がりです。

 

 当時は、まだ“ボランティア”という言葉が一般的でなく社会奉仕員と呼ばれ、“ボランティアセンター”が“社会奉仕銀行”と呼ばれた時代、「これからの福祉は行政依存から脱皮。そのためにはボランティアの輪を広げなくては…」と福祉施設見学会を企画するも、その費用確保に苦慮。

 この状況に渡邊さんは、「大型免許を持っているので…」と市のマイクロバスを借り上げ、見学希望者を乗せ、自らハンドルを握って市内の福祉施設を案内、自分は、その熱意に打たれ取材を重ねました。

 

 もう1つは、昭和50年代後半、JR富士駅北口前にあったショッピングセンター・パピー展示場を会場にした『星野富弘詩画展』です。

 

 星野さんは、中学の体育教師だった昭和45年(1970年)、クラブ活動指導中に頸髄を損傷し、手足の自由を失っています。入院中に生きる証として筆を口に加えて詩や絵を描きはじめ、昭和54年(1979年)に群馬県で初の作品展を開催するとともに作品集を発刊。命の尊さを詩と絵に託した、その作品は高い評価を受け、全国各地で『花の詩画展』が開かれるようになっています。

 

 この開催を知った市内のボランティアの間に「富士市でも…」の声があがった際、事務局機能を担い、実現に結び付けて下さったのが渡邊さんでした。「無理と諦めるのではなく、できるだろう、その発想で頑張ろう」、そう言いながら…。

 当時の小川清教育長のサポートもあって教職員の方々の協力も得られ、1週間にわたるパピーの展示会には、「過去最高」という1万人余もの来場者を数えています。

 

 渡邊さんの物凄い点は、この後にも続き、展示会終了後、ボランティアの間に「星野さんに会って詩画提供のお礼を述べたい」の声があがるものの星野さんの居住地は群馬県の山間部。

 この状況に渡邊さんは「行こう」と準備を進め、ワンボックスカーを借り上げて、確か、7人で群馬へ。自分も運転交代要員として参加、車椅子友の会の小林正治さん(故人)も参加しています。

 ベッドから笑顔で我々を迎えてくれた星野さんと会った瞬間、小林さんの双眸(そうぼう)には光るものがありました。

 

 この『星野富弘詩画展』の開催は、富士市の福祉の礎ともなっています。

 

 平成10年(1998年)の青葉台小学校の開校に合わせて青葉台まちづくりセンターが建設された際、ボランティアの皆さんが「量が、ある程度、充足された今後は質の充実が必要。2階建てであってもバリアフリーのシンボルであるエレベーターの設置を」と要望。

 

 しかし、当時の市の方針は、「公共施設へのエレベーター設置は3階建て以上。2階建ては健常者がオンブやダッコの役目を。それによって福祉の心も育つはず」でした。

 それなりに説得力を有した理由でしたが、納得できないボランティアの皆さんが市長(鈴木清見氏)に設置を直訴。その直訴の場には、星野さんに出会った以降、『市民福祉まつり』などの福祉事業に積極的に関わりもっていた小林さんも利用者の立場で同席しました。

 

 普段、物静かな小林さんは、はっきり、興奮気味に市長に、こうお願いしました。

 

「皆さん、気軽にオンブやダッコといいますが、私のように交通事故で脊髄を損傷、車椅子使用になった者は、オンブやダッコによって腹部を圧迫されると尿が出てしまいます。私は年齢的にまちづくりセンターを利用することは、もうないと思いますが、交通事故の頻発が続く社会、これから私のような障害者のために、ぜひ、エレベーターの設置をお願いします」

 

 これを受け、市長は、着工が決まっていたまちづくりセンターの設計を変更、市内のまちづくりセンターとしては初のエレベーターが設置されています。

 

 これも渡邊さんの熱意を種にしての成果です。

 

 市社協退任後の渡邊さんと自分との関係はパソコンの先生で、市議就任以降、ホームページの開設や、その管理、さらに報告会用のパワーポイントの作成・操作方法などは独学では限界があり、そのメカのサポートをお願いしてきました。

 

 あれこれ徒然になるままに記しましたが、市社協退任後、渡邊さんは奥様と旅行を楽しんでおられたようで、お悔みに訪れた際、「主人がたくさんの思い出を作ってくれました」と話されていました。

 

 葬儀は14日午後6時から通夜、15日午後1時から本葬を、共に富士市松岡の金華堂会館本館で…。“戦友”の見送りに行ってきます。何一つ、返礼できなかったことも詫びてきます。合掌

 

追伸

 

14日の通夜で…

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