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2018年 中国人殉難者慰霊祭に列席しました

 きょう7月1日午前9時から富士市田子浦地区にある中丸平松墓地で「中国人殉難者慰霊祭(以下、「慰霊祭」という。)」が開かれ、参列しました。

 慰霊祭は、地元の中丸浜区(遠藤雅治区長)と富士市日中友好協会(渡辺敏昭会長)が田子浦仏教会の協力を得て、毎年、7月の第1日日曜日に墓地内にある慰霊塔で開いているもの。自分、海野しょうぞうは日中友好協会の副会長としての参列でしたが、役目は雑用係と記録写真係。地元の慰霊祭に寄せる熱意に接し、改めて「世の範となる、素晴らしい、不戦・平和運動だ」、その思いを胸に刻んできました。

 

       ●印が中丸平松墓地です

 

 第二次世界大戦の末期、日本各地で本土決戦に備えての軍事施設の建設が進んだものの当時の日本は出兵によって労働者が不足。この不足を日本の占領下にあった中国に求め、多くの中国人が日本に渡っています。

 富士市でも昭和19年(1944年)頃、田子浦地区で飛行場の建設に着手。504人の中国人が建設に従事していますが、想像を絶する厳しい食糧事情と過酷な労働環境により52人が亡くなったといわれます。

 

 慰霊祭は、その史実を風化させずに後世に伝え、不戦・平和の輪を広げていくことを狙いに開催しているもので、中丸浜区の皆さんがテント設営や椅子などを準備、日中友好協会は受付や進行などを担当しています。

 

    受け付けを担当した日中友好協会の女性陣です

 

 午前9時に開始。関係者や田子浦地区の区民、それに園児から高校生の子供達など70人余が参列、田子浦仏教会の僧侶による読経が流れる中で焼香が行われ、これに続く式典では小長井義正市長が市民を代表して慰霊の言葉を捧げ、このほか、日中友好協会の渡辺会長、中丸浜区の遠藤区長、富士市議会の望月昇議長が挨拶。それぞれの立場から慰霊祭開催の意義と不戦・反戦への思いを参列者に伝え、会場には静かな賛同と感動の輪が広がりました。

 

        読経が流れる中での慰霊祭

 

           参列者が焼香

 

           小長井市長です

 

          渡辺会長です

 

           遠藤区長です

 

          望月議長です

 

 

【慰霊の歩みのパンフを作成しました】

 

 今年の慰霊祭にあたり、富士市日中友好協会は『慰霊の歩み』と題したパンフレットを作成、参列者や取材に訪れたマスコミに配布しました。

 慰霊塔には、副碑も建立されていますが、故国に馳せる想いも空しく、この地で52人もの中国人労働者が亡くなられた史実と、追悼の意を捧げる慰霊祭への取り組みを「しっかりと活字として残し、後世に伝えたい」、そんな思いからです。

 

 以下にパンフをアップしましたが、縮小していることにより、判読が厳しいと思いますので全文もアップしました。お読みいただけたら幸いです。

 

 

 

【中国人殉難者とは…】

 

 第二次世界大戦の末期、出兵によって労働者不足となった日本では、その労働力を占領下の中国に求め、日本に渡った中国人労働者は全国各地の軍事建設現場に従事。しかし、当時の劣悪な食糧事情と労働環境により故国に馳せる想いも空しく現地で亡くなられる方も多かった。この方々を“中国人殉難者”と呼ぶ。

 富士市においても当時の富士郡田子浦村に陸軍が建設中の富士飛行場の興亜建設隊に中国人504人が編入され、作業に従事するも52人が亡くなり、中丸平松墓地に埋葬された。

 この中国人殉難者は、戦場とは違った側面から「戦争とは…」の史実を今に伝えているものの、その一方では、劣悪な食糧事情に地元の人々が監視の軍の目を盗んで握り飯などを中国人労働者に与えた、という国境を越えた人類愛に満ちた史実も残されている。

 

◆1944年(昭和19年)9月から10月にかけ、中国人労働者504人が第1次と第2次に分かれて富士飛行場建設現場に…。請負会社は熊谷組。

 

◆戦後の1948年(昭和23年)7月、熊谷組は中国人労働者504人中、劣悪な食糧事業と労働環境により亡くなった52人の埋葬墓地である中丸平松墓地に『中華民國人興亜建設隊故歿者之碑』と刻んだ慰霊碑を建立している。

 

◆1953年(昭和28年)から全国各地に眠る中国人殉難者の遺骨返還運動が進められ、富士市でも反戦・平和運動に取り組んでいた人達が遺骨返還運動に乗り出し、1954年(昭和29年)5月17日、そぼ降る雨の中、地元の方々20数人の奉仕によって遺骨発掘作業が行われている。

 

◆1954年(昭和29年)5月23日、田子浦地区の福泉寺において当時の富士市長、遠藤脩治氏が祭主となっての慰霊祭が行われている。52体の遺骨は同年11月16日に海を渡り、11月20日、天津にて中国側に引き渡されている。

 

◆遺骨は中国に引き渡された以降も、関係者と地元住民による慰霊祭が毎年7月に行われ、こうした中、富士市と中国浙江省嘉興市との国際友好都市締結の機運が高まった1980年代後半、従来からあった慰霊碑の副碑建立計画が浮上。建立は富士飛行場建設の請負会社だった熊谷組が担い、友好都市締結1年半後の1990年(平成2年)7月14日、中国大使館1等書記官、劉洪才氏を来賓に招いての慰霊祭で、その除幕式が行われている。

 

◆副碑は、熊谷組が1948年(昭和23年)7月に建立した慰霊碑に刻まれている『中華民國人興亜建設隊故歿者之碑』のうち、“中華民國”は、中国大陸に“中華人民共和国”が成立した以降、台湾を指すのが一般的になっていることから『中国人殉難者慰霊碑』と刻み、さらに、従来の慰霊碑は碑文名だけだったことから、副碑には、その史実も組み込んでいる。

 

◆この副碑建立以降、富士市日中友好協会(注1)と地元の中丸浜区が共催しての中国人殉難者慰霊祭が毎年7月第1日曜日に田子浦仏教会の協力を得て行われている。

(参考文献:静岡県中国人俘虜殉難者慰霊報告書)

 

(注1) 富士市日中友好協会は、戦後、中国大陸からの帰還者などによって組織、中国との国交回復運動を基軸に活動していたが、富士市が1989年(平成元年)1月13日に中国浙江省嘉興市と国際友好都市を締結した以降、国際交流を活動の柱としている。新生富士市日中友好協会としての新たなスタートで、広く加入を呼び掛け、中国大陸からの帰還者のほか、国交回復後、日本に帰国した中国残留孤児と、その家族、中国への留学経験者、さらに結婚などによって富士市民となった中国人や中国人研修生などが加入。今年5月の総会時点での会員数は80人を数えている。問い合わせや入会は渡辺会長(筍娃毅苅機檻械粥檻隠牽毅粥法

 

 

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