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忽然と消えた新興宗教施設、大和同園を知っていますか?

 少しばかり旧聞になりますが、前職時代に勤務していたローカル紙・富士ニュースの10月13日付け1面に掲載されたシリーズ物『ふるさと再発見 郷土史を訪ねる』で富士市桑崎の地に昭和初期から第2次世界大戦までの間、新興宗教団体・心教和同会が総本山とした大和同園(正式には不二大和同園=ふじだいわどうえん)の史跡が紹介されていました。

 宗教団体としては今も存続しているものの大和同園そのものは終戦とともに忽然と消えた謎のベールに包まれた宗教施設。掲載された紙面に接し、その謎を解くために燃えに燃えた40年余前にタイムスリップ、懐かしく、感動、そして、ある種の寂しさ、そんなものを感じています。

 長文になりますが、しばし、「大和同園とは…」にお付き合い下さい。

 

ブログDSC04249.JPG

 

 心教和同会の教祖は1875年(明治8年)に新潟に生まれた品田俊平。彼の教えの理念は「共存共栄は天の道なり、大共存、大幸福の基礎は大和同円満主義にあり、吾も人も共に仏なり、故に自らを合掌せよ、下駄に礼し、便所にも合掌せよ」というもので、和をもって宗教を一つにまとめ、円満主義を世界中に広めようという理想宗教でした。

 現代でいえば、オウムの真逆の宗教団体といえるかもしれません。

 

 短期間の間に多くの信者を集め、教祖の品田俊平は1928年(昭和3年)、当時の吉永村から富士・愛鷹山麓である桑崎の地の約16.5ヘクタールを借り受けて総本山とする大和同園を開設。神殿には、和を尊ぶ教えを具現する形で天照大神を中心に釈迦、孔子、キリスト、ソクラテスなど世界の聖人を祀り、開園式には全国各地からの信者を中心に1万人余が詰めかけた、とされています。

 

 神殿のほか十畳敷十二間つづき総2階の修行・宿泊棟も3棟、入口には『大和同園』と刻んだ溶岩を積み立てた高さ6辰離轡鵐椒襯織錙次⊃静造膨未犬觧夏擦砲狼霏腓瞥牢簑い蠅旅犬2頭も建立。

 短期間で隆盛を極める中、教祖の品田俊平は、家族に疎んじられた精神系疾患の人達も受け入れ、その数は300人余に達した、とされています。

 

 しかし、教祖の品田俊平は1935年(昭和10年)、天皇の長寿と、来日していた満州国皇帝の無事帰国を祈願して断食を開始、その満願日に入寂。

 教祖を失ったことを契機に信者離れが進み、これに第2次大戦突入後、訪れた信者に大和同園の修行・宿泊棟の入居していた精神系疾患の人達が「麓から敵が攻めてきた」と石を投げるなどの事態に陥り、急速に衰退。熱心な信者も信者としての自負心の韜晦(とうかい)を突き付けられたことから終戦とともに、存在した歴史は忽然と消え、跡地も、わずかな史跡が残るだけで、ヒノキなどが植栽された経済林となっています。

 

 自分が、富士・愛鷹山麓の地で、かつて隆盛を極めた大和同園の史実を知ったのは、駆け出し記者時代に郷土史研究の第一人者だった鈴木富男先生(2001年、平成13年没)からの、ある依頼でした。

 

 富士市は1981年(昭和56年)に広見公園内に市立博物館(現・富士山かぐや姫ミュージアム)をオープンさせていますが、その構想づくりに参画していた鈴木富男先生は、「海野さん、桑崎に大和同園の史跡がある。そこにある巨大な狛犬2頭を博物館正面に移設、歴史的価値を含め博物館の目玉展示物にしたい。それを提案するために現地取材をしたいが、私は高齢になり車の免許証を返上、一人で行くことも体力的に自信がない。ぜひ、私を連れて行ってくれないか」と話されました。

 

 仕事上、大変お世話になっており、かつ「いつでも秘書代わりに…」と申し出ていたことによる依頼で、二つ返事で承諾。事前調査を進め、史跡下段にある市立少年自然の家職員の協力も得て現地へ。史実に感動、現地調査では、シンボルタワーをバベルの塔、溶岩造りの巨大な狛犬をスフィンクスに置き換えた子供じみた興奮をもって取り組んだことを覚えています。

 

 もちろん、その現地調査の状況を記事にし、実現を求める鈴木富男先生のコメントも入れて紙面に掲載。しかし、宗教施設であることや溶岩造りのため美術品として価値に疑問符が打たれたことから博物館への移設は実現しませんでした。

 

 移設が実現しないどころか、2001年(平成13年)に開園した市営森林墓園の造成にあたって大和同園跡地が墓園の一部となり、「保存を」の声には記録保存で処理、大和同園の史実を伝える神殿や狛犬をはじめ修行・宿泊棟の遺構、参道などが取り壊されています。

 

 わずかに墓園敷地外となったシンボルタワーが残存。それが富士ニュースの10月13日付けの『ふるさと再発見 郷土史を訪ねる』で紹介されたもので、懐かしく、感動したことから、改めて「円満主義を世界中に広めようとした理想宗教の布教の地があった貴重な史実を広く知ってほしい」と、ここに、これまでの経過を記しているものです。

 

 40年余前の現地調査の際ですら、経済林のヒノキ林の中にあり、大和同園開園時の地図を頼りに探すものの、足場の悪い斜面地であったこともあって悪戦苦闘。森林化は、さらに進み、その探索の大変が容易に想像できることから「取材記者、頑張ってくれたな」です。

 

 しかし、懐かしく、感動するも、40年余前に目にしたシンボルタワーは、溶岩造りであることが判然、そして石碑に刻み壁面に組み込まれた「大和同園」の文字もはっきりと読み取れたものの、掲載写真ではタワー全体が草類に覆われ、文字もわずかに読み取れるだけ。あと数十、いやあと数年もすれば完全に草類に覆いつくされ、ヒノキ林と完全に同化、探し出すことは不可能になってしまうかもしれません。

 

ブログDSC04250.JPG

草類が覆う、現在のシンボルタワー

            (新聞紙面から)

 

 記録保存されているとはいえ、時の流れを突き付けられ、我が身に置き換えて愕然、ある種の寂しさを禁じ得ません。

 人は誰しも老いる、その当たり前のことを自然体で受け入れる人生修行が足りない。分かっちゃいるのですが…。

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