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2020年、富士市戦没者追悼式にて…

 きょう8月15日は、75年前の1945年(昭和20年)に第二次世界大戦が終結したことを後世に伝え、戦没者を追悼、平和を祈念する日、『終戦記念日』です。富士市でも恒例の『戦没者追悼式』がロゼシアターで行われ、式典を所轄する市議会文教民生委員会の委員として参列させていただき、改めて「戦争とは…」、そして「終戦記念日とは…」に思いを巡らせました。

 

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 富士市の『戦没者追悼式』は、毎年、市と遺族会が協調して8月15日に開催。市議会にも議員全員に出席要請があったのですが、今年はコロナ禍による3密回避から規模を縮小。議長、副議長、それに文教民生委員会所属議員のみへの参加要請。その他の来賓も範囲を絞り込んだようで、例年、会場とする700人収容の中ホールは、時間の経過とともに遺族が減少する中でも2分の1程度埋まっていたものが、今年は4分の1程度の参加状況でした。

 

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 式典は、NHKラジオが伝える『全国戦没者追悼式』の実況放送に合わせて午前11時50分に開始。英霊に捧げる小長井義正市長の式辞に続いて来賓代表の追悼の辞、献花が行われ、最後は遺族会の原保代表が戦争の悲劇を二度と繰り返さない決意を込めたお礼の言葉を述べ、1時間余で終了しました。

 

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 第2次世界大戦までの富士市の英霊数は2,697柱を数え、遺族世帯は841世帯です。

 

 私は、戦争を知らない戦後生まれですが、父の弟で、岩松の実家から出兵した叔父2人が戦死している遺族世帯です。

 

・海野勝、昭和19年7月31日、太平洋で戦死、満21歳

・海野稔、昭和20年6月8日、フィリピンルソン島で戦死、満24歳

 

 家督を継ぐ長兄だった父は、激戦の南方戦線で交戦中、腹部貫通の重傷を負い、生還するも、もはや働ける体ではありませんでした。

 それ以上に弟2人、そして多くの戦友の戦死から受けた心の痛手が大きく、酒におぼれた無言の日々を過ごし、深夜になると聞き取ることのできない独り言を繰り返していました。

 私は幼少期に、父にオンブされたことや、ダッコされた記憶は全くなく、その後も会話らしい会話もなく、親子に深い溝のできたまま、父は50代後半、癌により黄泉の国に旅立っていきました。私が高校2年、17歳の凍てつく真冬でした。

 

 しかし、黄泉の国に旅立った父を超える年齢となった頃、ようやく父の心の傷が分かるようになりました。「一番、辛かったのは父ではなかったのか…」。戦地で散った弟2人、そして多くの戦友、その死を無駄にしないために、妻子を養うことのできない体になっても生き続けなければならなかった父の悲しさが分かるようになりました。

 

 献花が続く中で、そんなことを思いながら「終戦記念日を、不戦を誓う日にしなくては…」と、それを改めて胸に刻み、ある詩を思い出し、「忘れまい」を誓ってきました。

 

 ある詩とは、シベリヤ抑留の日本人の悲劇を描いた音楽劇『君よ、生きて…』で詠まれる腰塚勇人の『五つの誓い』です。

 

今、君に伝えたい

目は、人の良いところを探すために使おう

耳は、相手の話に傾けるために使おう

口は、人をほめるために…

そして、その手は、人を傷つけるためではなく、支え合い、愛する、すべての人達を抱きしめるために使おう

 

 

(※)式典中の写真撮影は自粛しました。

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